入祭唱 "Dicit Dominus: Ego cogito cogitationes pacis" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ3)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 366; GRADUALE NOVUM I pp. 355–356.
gregorien.info内のこの聖歌のページ
"Dicit Dominus" という言葉で始まる入祭唱は複数ある (今私が軽く調べた限りでは3つ。それに加えて,入祭唱以外のジャンルでもたくさんある)。そのため,区別のために少なくとももう1語 (今回扱うものなら "Ego") 記す必要がある。
更新履歴
2023年10月11日 (日本時間12日)
現在の方針に合わせ,全面的に改訂した (タイトルの変更,「教会の典礼における使用機会」および「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の各部の新設,対訳の部と逐語訳の部との統合など)。
訳・解説も改めた。
2018年11月12日
投稿
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版ORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,年間第33週に割り当てられている。ほかに,教会暦関係なしに行うことができる「種々の機会のミサ」のうち,「戦時や破壊的なことが起こっている時のミサ」や「難民や追放された人々のためのミサ」で用いることができる入祭唱の一つともなっている。
2002年版ミサ典書でも同じである (ただし「年間第33週」ではなく「年間第33主日」と記されている。この違いは「年間」においてはあまり気にしなくてよい)。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版ミサ典書では,聖霊降臨後第23主日に割り当てられている。
聖霊降臨後の主日 (聖霊降臨祭の後,アドヴェント [待降節] に入る前までにくる主日) の数は復活祭の時期などにより増減するが,最も少ない場合は23回である。それより多い場合,すなわち第24以降の主日がある場合,入祭唱は (入祭唱に限らず,ミサの聖歌はどれも) この第23主日のものが繰り返し用いられる。つまりいずれにせよ,これは教会暦上最後に歌われる入祭唱だということになる (教会暦上の一年はアドヴェントをもって始まるので)。
AMSにまとめられている8~9世紀の聖歌書では,面白いことになっている。
AMSにまとめられている6聖歌書のうち,入祭唱に関係あるのは5聖歌書なのだが,そのうち1つ (Compiègne [コンピエーニュ]) においては,この入祭唱が記されていたはずの部分は失われている。
残り4つのうち3つ (Mont-Blandin [モン=ブランダン],Corbie [コルビ],Senlis [サンリス]) では,1962年版ミサ典書と同じく聖霊降臨後第23主日のところに今回の入祭唱が記されており,そしてやはりこれより後の主日 (のための聖歌) はない。
問題は残る1つ,すなわちRheinau (ライナウ) の聖歌書で,「主の降誕前第5主日」のところにこの入祭唱が載っているのである。この「第5」というのは後ろから数えての第5である。主の降誕前の季節,すなわちアドヴェント (待降節) といえば,今では4つ主日があるものと決まっているが,ここでは5つ前の主日から始めているわけである。というわけで,現在でいうアドヴェント第1主日 ("Ad te levavi" の日) の前にこの "Dicit Dominus: Ego cogito cogitationis pacis" の日の聖歌が記されている。歌われるタイミングは同じとはいえ,区切りが異なるのが興味深い。
現在のアドヴェントは11月27日~12月3日の間にくる主日に始まるが,古くは (今と違って地域による違いは大きかったが) 聖マルティヌスの祝日 (11月11日) の翌日に始まっていた (「アドヴェント」と呼ばれたかどうかはともかく,降誕祭前の斎戒期が設けられていた)。つまり今より長かった。その後教皇グレゴリウス1世 (在位590–604) がローマ典礼についてアドヴェントの主日は4つと定め,そして何段階かに分けてローマ典礼は西方教会全体に導入されていったものの,地域によってやり方が異なる状態がなお長く (16世紀のトリエント公会議まで) 続き,5週間ないし6週間のアドヴェントを持つ地域も残った (ミラノ典礼や東方教会では今でも6週間らしい)。Rheinauの聖歌書の上記箇所は,その一端を示しているのかもしれない。(この段落はWikipediaやもう一つの別のサイトを軽く読みつつ [2023年10月11日アクセス] 書いた大雑把な説明であり,細部に至るまで正確とは限らない。本当はある本格的な解説書を参照したかったのだが,部屋が散らかりすぎて目下どこかに行ってしまっている。見つかったら書き直すかもしれない。)
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Dicit Dominus: Ego cogito cogitationes pacis, et non afflictionis: invocabitis me, et ego exaudiam vos: et reducam captivitatem vestram de cunctis locis.
Ps. Benedixisti, Domine, terram tuam. Avertisti captivitatem Iacob.
【アンティフォナ】主が言われる。「この私が企てているのは平和の計画であって,苦難の計画ではない。私を呼び求めるがよい,そうしたら私はあなたたち (の声) をしっかりと聴こう。そしてあなたたちの捕らわれの民をあらゆる場所から連れ戻そう。」
【詩篇唱】主よ,あなたはあなたの地を祝福なさいました。あなたはヤコブの捕囚 [という災い] を転じてくださいました。
アンティフォナも詩篇唱も,バビロン捕囚を背景とする内容である。
アンティフォナはエレミヤ書第29章第11–14節に基づいているが,第13節は用いられておらず,第11,12,14節もそれぞれ一部だけが用いられている。
比較の前に,もとになったラテン語聖書テキストが何であるかが問題となるが,これはVulgataであると考えられる。Vetus Latina Databaseで見た限り,Vetus Latina (Vulgataより前のラテン語訳聖書テキストの総称) には "et reducam captivitatem vestram de cunctis locis" にあたる部分が含まれていないからである。これは,この部分が七十人訳ギリシャ語聖書 (Vulgataより前のラテン語旧約聖書テキストはギリシャ語聖書からの翻訳である) に含まれていないためと考えられる (なお,七十人訳のエレミヤ書はヘブライ語聖書のそれより内容がやや少ないだけでなく,順序がだいぶ異なり,この部分は第36章となっている)。Vulgataのエレミヤ書はヘブライ語から直接訳されたものであるために,この部分が含まれているというわけである。
というわけで,Vulgataのエレミヤ書第29章第11–14節を次に掲げ,今回の入祭唱アンティフォナに対応する箇所を太字で示す。
詩篇唱にとられているのは第84篇 (ヘブライ語聖書では第85篇) であり,ここに掲げられているのはその第2節 (実質的に最初の節) である。テキストはローマ詩篇書にもVulgata=ガリア詩篇書にも一致している (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。
【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】
Dicit Dominus:
主が言われる。
Ego cogito cogitationes pacis, et non afflictionis:
「この私が企てているのは平和の計画であり,苦難の計画ではない。
直訳:この私は平和の計画を企てている,(そして) 苦難のではない。
"afflictionis" の訳が難しい。ヘブライ語から訳すなら聖書協会共同訳のように「災いの」でよく,文脈からしても座りがよいので私もこうしたいのだが,このラテン語は上記の逐語訳に示したような意味なので,はたして十分に適訳といえるかどうか疑問なしとせず,とりあえず「苦難の」とした。
invocabitis me, et ego exaudiam vos:
私を呼び求めるがよい,そうしたら私はあなたたち (の声) をしっかりと聴こう。
別訳:……あなたたち (の願い) を聞き届けよう。
et reducam captivitatem vestram de cunctis locis.
そしてあなたたちの捕らわれの民をあらゆる場所から連れ戻そう。」
【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】
Benedixisti Domine terram tuam:
主よ,あなたはあなたの地を祝福なさいました。
avertisti captivitatem Iacob.
あなたはヤコブの捕囚 [という災い] を転じてくださいました。
イスラエルの民の「イスラエル」はもともと個人名であり,その族長イスラエルのもとの名は「ヤコブ」である (創世記第32章第29節を参照)。このことから,「ヤコブ」の名でイスラエルの民を指すことがよくあり,ここでもそれが行われている。
七十人訳ギリシャ語聖書は「あなたはヤコブの捕囚民を連れ帰ってくださいました」とも訳せるのだが,このラテン語の動詞averto, avertere (>avertisti) をそのような意味に訳すのは無理そうである。