拝領唱 "Aufer a me" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ95)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 353; GRADUALE NOVUM I p. 342.
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【教会の典礼における使用機会】
後日追記する。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Aufer a me opprobrium et contemptum, quia mandata tua exquisivi, Domine: nam et testimonia tua meditatio mea est.
私から恥辱と軽蔑とを取り去ってください,私はあなたの掟を熱心に求めたではありませんか,主よ。そして実際,私が思いめぐらすのはあなたの証しなのです (※)。
詩篇第118篇 (ヘブライ語聖書では第119篇) 第22節と第24節前半とが用いられているが,テキストはローマ詩篇書ともVulgata=ガリア詩篇書とも少し異なっている (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。
異なるのはどこかというと,何より "quia mandata tua exquisivi, Domine" という箇所である。まず "Domine (主よ)" という呼びかけはいずれの詩篇書にもない。それから,"mandata (命令を,委託を)" はいずれの詩篇書でも "testimonia (証しを)" となっている。
後者については,ほかのさまざまなVetus Latina (Vulgataより前のラテン語訳聖書テキストの総称) も見てみたが,どれも "testimonia" で,"mandata" となっているものは一つとしてなかった。ただ,同じ詩篇の第45節と第100節とにまさに "quia mandata tua exquisivi" という文が含まれており,これが "quia testimonia tua exquisivi" と似ているものだから紛れ込んだのではないかと思う。詩篇の中で「命令・委託」と「証し」とは同じこと (律法,神の教え) の言い換えとして現れている語であるから,なおさらこのようなことは起きやすかったろうといえる。
とはいえこんなことは,書かれている聖書を見てそこから写すのであればあまり起こらなさそうである。しかしここは,典礼文の成立に関わっていた人々や修道者たちは詩篇を暗記していたはずだということに思いを致すのがよいだろう。ひとたび頭の中に入ってしまえば,書物の中では離れたところにあるもの同士も容易に結びつきうるようになる。というわけで,記憶に基づいて詩篇を引用して拝領唱のテキストを定めたのであれば,このような細かいところでの取り違えが起きるのも自然なことだろう。
【対訳・逐語訳】
Aufer a me opprobrium et contemptum,
私から恥辱と軽蔑とを取り去ってください,
quia mandata tua exquisivi, Domine:
私はあなたの掟を熱心に求めたではありませんか,主よ。
直訳:なぜなら,私はあなたの御命令を探し求めたのですから,主よ。
"Domine (主よ)" はこのquia節に含まれるとも,主節 ("Aufer a me" …) に含まれるとも解釈できる。
"mandata" は「掟」と訳すにせよ「命令」「委託」と訳すにせよ,「律法」(幸せに生きるための神の教えと言ってもよい) の別の言い方の一つである。
nam et testimonia tua meditatio mea est.
直訳:というのも,私が思いめぐらすものは,あなたの証しでもあるのですから。
別訳1 (主語と補語とを逆転):というのも,あなたの証しもまた,私が思いめぐらすものなのですから。
別訳2 ("nam et" をもとのギリシャ語に戻って考えた場合の一例):そして実際,私が思いめぐらす (/思いめぐらしてきた) のはあなたの証しなのです。
「証し (testimonia)」も「律法」の別の言い方の一つであり,つまりこの拝領唱においては前の "mandata" と同じものを指していると考えてよい。
"et testimonia tua (あなたの証しも)" のほうが主語だったら訳しやすかったと思うのだが,文法上そうはゆかない (述語動詞 "est" が単数形なのだが,"testimonia tua" は複数形,"meditatio mea" は単数形であるから後者が主語である) ので仕方ない。
ただ,もとの聖書 (次に引用するテキストはローマ詩篇書) では "et consolatio mea iustificationes tuae sunt (あなたの律法 [?] は私の慰めでもあるのです)" という一文が続いており,ここでは「私の (mea) ~」と「あなたの (tuae) ~」との順序が逆になっていて,しかも述語動詞が「あなたの~」のほうに一致して複数形になっている ("sunt")。要するに,文法的に考えるとこちらは逆に「あなたの~」のほうが主語たらざるを得ない形になっている。しかし,この文は明らかに "et testimonia tua meditatio mea est" と平行関係にある。要するに,どちらが主語でどちらが補語かというのは,ここではあまり問題でないのかもしれない。というわけで主語と補語とを逆にして訳したのが別訳1である。もう一つ,"et" (ここでは「~も」の意) がなかったらすっきりしてよいのにと思う。「私が思いめぐらすものは,あなたの証しです」でよいところ,どうして「あなたの証しでもあるのです」と言うのか。
実は,これはもとの聖書では "nam et testimonia tua meditatio mea est et consolatio mea iustificationes tuae sunt" となっていて,"et A et B" で「AもBも」ということを表す構文であり,ここではA,Bそれぞれに一つの文が丸ごと入っている。「というのも,私が思いめぐらすものはあなたの証しですし, あなたの律法 [?] は私の慰めなのです」くらいの意味になろう。この後半を削ってしまったものだから構文が崩壊し,その残骸のように片方の "et" だけが残ってしまったのがこの拝領唱のテキストだ,ということではないかと私は疑っている。"et" 問題について,もう一つ見方があろうかと思う。七十人訳ギリシャ語聖書にさかのぼると,この "nam et" にあたる位置に "καὶ γάρ" とある。"καὶ" はラテン語でいう "et","γάρ" は "nam" にあたるのだが,2語まとめて「というのも」「というのも実に」「そして実際」といった意味にもなりうるもので,こう捉えるならば,ラテン語では2語まとめて "nam" (あるいはたぶん "etenim" だとなおよさそうだが) と訳せばよいことになる。ところが馬鹿正直に "καὶ" のほうも訳出してしまったものだから (位置は入れ替わっているが) "et" が入ってしまって分かりづらいことになっている,と,このようにも考えられるのではないかと私は思っている。
こう考えるならば,"et" を無視する,というか "nam et" 全体で「というのも」あるいは「そして実際」という意味だととる (別訳2),というのも許されなくはないのではと思う。このためかどうか知らないが,実際,"et" を無視している訳文は複数見た。ラテン語の文字通りの意味から離れることはなるべく避けたほうがよいとは思いつつも,結局,前とのつながりがよいと思うので,全体訳では別訳2を採用した。