拝領唱 "Responsum accepit Simeon" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ104)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 544–545; GRADUALE NOVUM II p. 24.
 gregorien.info内のこの聖歌のページ
 


【教会の典礼における使用機会】

 後日追記する。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Responsum accepit Simeon a Spiritu Sancto, non visurum se mortem, nisi videret Christum Domini.
お告げをシメオンは聖霊から受けてある,しゅのキリストを見ることなしに彼が死を見ることはないと。

  「受けてある」というやや奇妙な訳語を採っている理由は後で説明する。

 ルカによる福音書第2章第26節が用いられている。幼子イエスとシメオンとの出会いの背景を述べた言葉である。以下に前後関係を示す。

 さて,モーセの立法で定められた清めの期間が満ちると,両親 [=ヨセフとマリア] はその子 [=イエス] をしゅささげるため,エルサレムへ連れて行った。それは主の律法に, 「母の胎を開く初子の男子は皆,主のために聖別される」と書いてあるからである。また,主の律法に言われているとおりに,山鳩1つがいか若い家鳩2羽を,いけにえとして献げるためであった。
 その時,エルサレムにシメオンと[い]う人がいた。この人は正しい人で信仰があつく,イスラエルの慰められるのを待ち望み,聖霊が彼にとどまっていた。また,主が遣わすメシア [=キリスト] を見るまでは死ぬことはない,とのお告げを聖霊から受けていた。この人が霊に導かれて神殿の境内に入った。そして,両親が幼子イエスを連れて来て,その子のために律法の定めに従っていけにえを献げようとしたとき,シメオンは幼子を腕に抱き,神をほめたたえて言った。
「主よ,今こそあなたはお言葉どおり
  このしもべを安らかに去らせてくださいます。
  私はこの目であなたの救いを見たからです。
  [……]」

ルカによる福音書第2章第22–30節 (聖書協会共同訳)。太字強調と [  ] 内の補足は引用者による。

 拝領唱のテキストはVulgataとは少し異なっており,BREPOLiSのVetus Latina Database (Vetus Latina:Vulgataより前のさまざまなラテン語訳聖書テキストの総称) も見てみたが完全に一致するものはなかった。

 とりあえず,Vulgataのテキストと比較することにする。

et responsum acceperat ab Spiritu Sancto non visurum se mortem nisi prius videret Christum Domini
お告げを彼は聖霊から受けていたまずしゅのキリストを見ることなしには彼が死を見ることはないと

ルカによる福音書第2章第26節 (Vulgata)。太字強調・訳は引用者による。

 この部分だけを切り取ることに伴う微調整 (最初の接続詞 "et" [英語でいう "and"] の除去,主語の明示つまり "Simeon" の付加) を別にすれば,相違点は2つある。一つは,Vulgataでは (そして多くのVetus Latinaでも) "acceperat (受けていた)" と過去完了時制になっている動詞が,拝領唱では "accepit" と完了時制になっていること。もう一つは,Vulgataで最後から4語めにある "prius (まず,先に)" という語が拝領唱にはないことである。
 後者については,全体をお読みになるとお分かりの通り,この語があってもなくても言われている内容に変わりはないのであまり気にしなくてよいと思われる。
 考える価値があるかもしれないのは前者である。以下,部分的にただの考えすぎかもしれない私見を述べる。

【"accepit" の時制 (完了時制) が表している (かもしれない) ものについて】

 たった今述べたように,Vulgataでは "acceperat (受けていた)" と過去完了時制になっている動詞が,拝領唱では "accepit" と完了時制になっている

 まずそもそもラテン語の完了時制というのはどういうものかだが, 「過去」を表すときと「現在完了」を表すときとがあるそのうち「現在完了」はさらに複数の用法に分けられるが,今回の話に関係あるものだけ記すと,過去に何かがあってその結果が現在に及んでいることを表すのに用いられる (参考:小林,pp. 98–99)
 過去完了時制も同様で,ただ叙述の起点は現在ではなく過去のある時点となる。すなわち, 「過去から見た過去」と文字通りの「過去完了」とであり,後者に関しては再び今回の話に関係ある用法だけ記すと,過去のある時点Aから見たさらなる過去に何かがあって,その結果が時点Aに及んでいることを表すのに用いられる。

 今回の場合,この完了時制は「過去」の意味なのか「現在完了」の意味なのかがまず問題となる (Vulgataのほうの過去完了時制についてもこれに準ずる) が,これは「現在完了」で間違いない。拝領唱のテキストだけを読むのではなく,上に引用した前後の話も含めて読めば, 「シメオンが聖霊からお告げを受けた」ということ自体に叙述の重点があるのではなく,そういうお告げを受けた人であるシメオンがついにメシア (キリスト) に出会うことができたというところが大切なのは明らかである。
 それゆえに,上の全体訳では「お告げをシメオンは聖霊から受けた」ではなく,「(……) 受けてある」とした。本当は「受けている」のほうが自然でよいと思うのだが,それだと現在進行形のようにも読めてしまい誤解を招くので,少し奇妙だがこのようにしてみた。

 ここの完了時制を「過去」と捉えるか「現在完了」と捉えるかについてはこれで解決として,次の問題は,Vulgataをはじめとする多くのラテン語聖書テキストで (適切にも) 過去完了時制になっているこの動詞が,なぜ拝領唱では完了時制 (要は現在完了時制) になっているのかである
 単に文法的に説明することも可能だろう。もとの聖書では,幼子イエスに出会うときのシメオンという過去の話が語られる中で,その過去から見てさらに前の話 (シメオンが聖霊からお告げを受けたという) を出しているために過去完了時制が用いられている。これに対して拝領唱では,シメオンが聖霊からお告げを受けたというところだけが取り出されているため, 「過去から見てさらに前」というときの「過去」の文脈が消えている。それゆえ過去完了時制を用いる意味がなくなったのだ,というわけである。
 しかし,救いのできごとを今ここで起こっていることとして祝うというキリスト教典礼の姿勢 (例えば12月25日の典礼では文字通りの意味をこめて「今日キリストが産まれた」と歌われる) から考えると,これはそういう文法的な話にとどまらない現象なのかもしれない。シメオンと幼子との出会いが,単なる物語・過去のできごととして語られるのではなく,今ここで起こっているものとして歌われるというわけである。聖霊からお告げを受け,その成就を待ち望んできたシメオンが,今 (この拝領唱を含むミサが行われているその時) まさにメシア (キリスト) に出会う時を迎える。そうであれば, 「お告げをシメオンが受けた」ことは「過去から見た過去」ではなく「現在から見た過去」となるのである。

 さらに,この聖歌が拝領唱,すなわち聖体拝領中に歌われる歌であるということも考えてよいのかもしれない。「シメオンが今まさにメシアに出会う時を迎える」と書いたが,現在の信徒たちにとってキリストに出会う時というのは,最も日常的かつ直接的な形としては,御聖体 (キリストの体に聖変化したパン) の形で現存するイエス・キリストと対面し彼に接触する時,すなわち聖体拝領の時であろう。まさにそのときこの拝領唱が歌われるのであれば,幼子とシメオンとの出会いをイエス・キリストと信徒たちとの出会いに重ね合わせるという意味で,この話を現在のことととらえるのがますますふさわしくなるともいえる。……ただ,実はこの拝領唱と同じ聖書箇所をもとにした聖務日課用レスポンソリウムが存在し,そこでも完了時制になっているので,この議論にはあまり説得力がないのだが。

 以上,考えすぎかもしれない私見を述べたが,ただ, 「シメオンが聖霊からお告げを受けたということ自体に叙述の重点があるのではなく,そういうお告げを受けた人であるシメオンがついにメシア (キリスト) に出会うことができたというところが大切」というのはたぶん合っていると思われ,それゆえ "accepit" を「過去」としてではなく「現在完了」として訳すことは的外れではないだろうと思っている (これだとなんとも訳しづらいけれども)。
 

【対訳・逐語訳】

Responsum accepit Simeon a Spiritu Sancto,

お告げをシメオンは聖霊から受けてある,

responsum 返答;お告げ
accepit 受けた;受けてある (動詞accipio, accipereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形) 
Simeon
シメオンが
a Spiritu Sancto
聖霊から (Spiritu:霊 [奪格],Sancto:聖なる)

  •   「受けてある」という変わった訳し方をした "accepit" の問題については上で詳しく述べた。

non visurum se mortem,

彼 (=シメオン) が死を見ることはないと,
直訳:自身が死を見ることにはならないと,

non visurum se 自身が見ることはないと (non:[否定詞],visurum:見ることになると [動詞video, videreをもとにした未来能動分詞の男性・単数・対格の形],se:自身が [対格])
…… 英語ならば従属節 (that節) を用いて述べるであろう「お告げ」の内容を,ここでは節ではなく句 (分詞句) で表現している。意味上の主語は "se",意味上の述語動詞は分詞 (今回は未来能動分詞) である "visurum",あるいは否定詞もつけて "non visurum" である。このようなとき,両者は対格をとることになっている。
…… これは間接話法なので,「自身」というのは聖霊ではなくシメオンのことである。お告げを語ったのは聖霊だが,この文の主節 ("Responsum accepit …" の主語はシメオンだからである。
mortem
死を …… "visurum" の目的語。

nisi videret Christum Domini.

しゅのキリスト (油注がれた者) を見るまでは。
直訳:しゅのキリストを彼 (=シメオン) が見ることなしには。

nisi ~でなければ,~でない限り (英:unless)
videret
彼が見る (動詞video, videreの接続法・能動態・未完了時制・3人称・単数の形)
Christum Domini
しゅのキリスト (メシア) を,主の油注がれた者を (Christum:キリストを,油注がれた者を,Domini:主の)

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