拝領唱 "Dominus regit me" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ6)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 365; GRADUALE NOVUM I p. 354.
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更新履歴

2023年10月9日

  •  現在の方針に合わせ,全面的に改訂した (タイトルの変更,「教会の典礼における使用機会」および「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の各部の新設,対訳の部と逐語訳の部との統合)。

  •  訳や解説も改めた。第1文では,ヘブライ語聖書 (初稿執筆当時は全く読めなかったので,正確には,そこから訳されたさまざまな聖書) に引っ張られて「牧してくださる」と訳していたのをラテン語動詞に忠実な訳にし,この件についての解説も書き加えた。

2018年11月14日 (日本時間15日)

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【教会の典礼における使用機会】

【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】

 1972年版ORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,四旬節第4週の火曜日,年間第32週 (A年の主日を除く),すべての亡くなった信者の記念の日 (死者の日,万霊節。11月2日) に割り当てられている。葬儀や諸々の追悼記念のミサで用いることができる拝領唱の一つともなっている (復活節にあたる場合は別の拝領唱が指定されている)。特に,洗礼を受けた幼児の葬儀にはこの拝領唱のみが割り当てられている。
 GRADUALE ROMANUM (1974) / TRIPLEXでは,洗礼を受けた幼児の葬儀についても,復活節には別の拝領唱が指定されている。

 2002年版ミサ典書でも四旬節第4週の火曜日と (A年も含めた) 年間第32主日 (※) とに割り当てられているが,後者については別の拝領唱も載っており,どちらかを選択することになる。すべての亡くなった信者の記念の日や葬儀・追悼記念ミサのところには,この拝領唱は載っていない。

※  ORDO CANTUS MISSAEと異なり「第32週」でなく「第32主日」となっているが,ここでは,週日 (平日のうち,聖人の記念などを行わない日) を含まないという意味には必ずしも取らなくてよい。ほかの季節はともかく,「年間」の週日には入祭唱の定めがないので,基本的には主日のそれをそのまま用いればよいからである。つまり,「年間」に関する限り,この相違はあまり気にしなくてよい。

【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】

 1962年版ミサ典書での使用機会は未調査である。いつか調べることがあったら追記する。

 AMSにまとめられている8~9世紀の聖歌書では,四旬節第4週の土曜日のところに載っている。
 ただし聖歌書によって (地域によって) 数え方が異なっていたようで,Compiègne (コンピエーニュ) の聖歌書ではこの週は第3週となっている (正確にいうと「第○○週」という記述はなく,主日のところに「第3主日」と書かれている)。数字が異なるだけで,実際に用いられたタイミングは同じである。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Dominus regit me, et nihil mihi deerit: in loco pascuae ibi me collocavit: super aquam refectionis educavit me.
しゅが私を導いてくださるので,私には欠けるものが何もないであろう。牧場である場所,そこに彼は私を住まわせてくださった。回復の水のほとりで彼は私を養ってくださった。

 詩篇第22篇 (ヘブライ語聖書では第23篇) 第1–2節が用いられており,テキストはローマ詩篇書に一致する。Vulgata=ガリア詩篇書もほとんど同じなのだが,第2語 "regit" (現在時制) がこちらでは "reget" (未来時制) となっている (※)。また "collocavit" が "conlocavit" となっているが,これは音便の問題にすぎない。
 (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら。)

※  ただしこれは版にもよると思う。Vetus Latina DatabaseにもVulgataのテキストが収録されているのだが,そこでは "regit" となっていた。私が基本的に用いているのはWeber/Grysonの2007年第5版である。


【対訳・逐語訳】

Dominus regit me,

しゅが私を導いてくださる,

Dominus 主が
regit 導く,方向づける,支配する (動詞rego, regereの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
me 私を

  •  ヘブライ語聖書では「主は私の牧者」であるから,「牧してくださる」ではないのかと思うところだが,このラテン語動詞は上記の通りの意味である。
     ヒエロニュムスはローマ詩篇書やVulgata=ガリア詩篇書に取り組んだ後,さらにヘブライ語から直接詩篇を訳しているのだが,そちらでは動詞が "pascit" (これはまさしく「牧する,養う」という意味) に改められている。わざわざ改められたということから,"regit" では「牧する」という意味にならない,少なくとも十分にはそうならないと認識されていたことが窺われる。

  •   「導いてくださる」となってしまったのは七十人訳ギリシャ語聖書のせいかというと,必ずしもそうではない。基本的に「牧する」という意味である動詞 (ποιμαίνω) が用いられているからである。とはいえ派生的に「導く,支配する」という意味でも用いられる語らしいので,そこからこのラテン語動詞につながってしまったということではあるのだろう。

et nihil mihi deerit:

そして,私には欠けるものが何もないであろう (何かがなくて困るということがないであろう)。

et (英:and)
nihil 何も~ない (英:nothing)
mihi 私に
deerit 欠けるであろう,(あるべきものが) ないであろう,なくて困るであろう (動詞desum, deesseの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)

in loco pascuae ibi me collocavit:

牧場である場所,そこに私を彼は住まわせてくださった。

in loco pascuae 牧場の (牧場である) 場所に (loco:場所 [奪格],pascuae:牧場の)
ibi そこに ……直前の "in loco pascuae" を受ける。
me 私を
collocavit 彼が置いた,彼が住まわせた (動詞colloco, collocareの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

  •   「牧場である場所に」というなんとも不格好な訳をした "in loco pasquae" について。ヘブライ語聖書では「青草の牧場に」「青草の原に」,七十人訳ギリシャ語聖書でも「若草の場所に」で,それぞれ若い草を意味する語が入っているのだが,このラテン語 "pascua" (>pascuae) はそうではなく「牧場」である (牧場には草が生えているに決まっているとはいえ)。せめて「牧草地」と訳そうかとも思ったが,この語は牧草を栽培する場所を指すこともあるようなので避けることにした。
     "pascua" が「牧場」なら「場所」を意味する "locus" (>loco) は要らないだろうと思うのだが,これは七十人訳の「若草の場所」の「場所」というのが残ってしまったのだろう。
     後に詩篇をヘブライ語から直接訳したときは,ヒエロニュムスはここを "in pascuis herbarum" (草の牧場で) としている。

super aquam refectionis educavit me.

回復の水のほとりで彼は私を養って (育てて) くださった。
別訳:休息 (憩い) の水の (……)
別訳:リフレッシュさせる水の (……)

super aquam refectionis 回復の水のほとりで (aquam:水 [対格],refectionis:再建・修理の,回復させることの,再び元気にすることの,リフレッシュの) …… "super" の基本的な意味は「~の上で」だが,このような使われ方もする。有名なほかの例:"Super flumina Babylonis (バビロンの川のほとりで)" (詩篇第136 [137] 篇第1節)。
educavit 彼が育てた,養った (動詞educo, educareの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数)
me 私を

  •  "refectio" (>refectionis) 自体は「再建・修理」「リフレッシュ」といった意味だが,七十人訳ギリシャ語聖書の対応箇所ははっきりと「休息」という意味で (ヘブライ語聖書でも同じ),悩ましいところである。両方の意味をよく含んでいそうな「休養」という語を用いることも考えたが,「休養の水」というのも変かと思い,七十人訳からの距離はもう少し開いてしまうがとりあえず「回復の水」とすることにした。

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