拝領唱/聖務日課用アンティフォナ "Visionem quam vidistis" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ108)
拝領唱として:GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 90; GRADUALE NOVUM I p. 74.
聖務日課用アンティフォナとして:ANTIPHONALE MONASTICUM III (2007) pp. 167–168; ANTIPHONALE MONASTICUM (1934) p. 351; LIBER USUALIS p. 550.
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【このアンティフォナが拝領唱としても用いられるようになった経緯】
このアンティフォナは本来聖務日課用であり,それがあるときからミサでも拝領唱として用いられるようになったものである。
どのようにしてこういうことが起きたのかだが,ポイントは,この聖歌がイエス・キリストの変容 (主の変容) というできごとを記した福音書の記事 (マタイ・マルコ・ルカでそれぞれ扱われているが,ここではマタイによる福音書第17章第1–9節) をもとにしたものだということである。
この「主の変容」を祝う日が西方教会 (カトリック教会) に導入されたのは遅く,正式導入の年でいうと1457年だった (参考:Volksmissale, p. 373 S. より詳しくはFeiern im Rhythmus der Zeit I, p. 189)。
このとき,この祝日の内容にぴったりの拝領唱を置こうとしたが既存のものの中にはなかったので,聖務日課用アンティフォナから取ってきた,というところだろうと推測される。
では,主の変容の祝日ができたのは遅かったのに,主の変容の話から取られた聖務日課用アンティフォナが早くからあったのはなぜかというと,もともと同じ話が四旬節第2主日に朗読されていた (これは今に至るまでそうである) からである。
より正確にいうと,本来これはその前日である「四旬節の四季の斎日の土曜日」に属する朗読箇所で,それが四旬節第2主日に流用されたものである (※)。
つまり,このアンティフォナはもとは四旬節第2主日ないしその前日の聖務日課で用いられていたものである。
【教会の典礼における使用機会 (拝領唱として)】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版ORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,四旬節第2主日,年間第6週の土曜日,主の変容の祝日 (8月6日) に割り当てられている。いずれも,イエス・キリストの姿が変わるというできごとを記した福音書箇所 (マタイ17:1–9,マルコ9:2–10,ルカ9:28b–36) が朗読される日である。
2002年版ミサ典書には,PDF内で検索をかけた限りではこの拝領唱は載っていない。四旬節第2主日と主の変容の祝日のところにはそれぞれ別の拝領唱が記されており,年間第6週の土曜日にはそもそも固有の拝領唱がない。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版ミサ典書では,PDF内で検索をかけた限りでは,主の変容の祝日 (8月6日) のみに割り当てられている。こちらでも四旬節第2主日 (およびその前日。詳しくは上で述べた) にイエスの変容の記事は朗読されるのだが,拝領唱は異なっている。
AMSにまとめられている8~9世紀の聖歌書には,この拝領唱は現れない。上述の通り,主の変容の祝日が導入されたのはもっと後だからである。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Visionem quam vidistis, nemini dixeritis, donec a mortuis resurgat Filius hominis.
あなたたちが見たヴィジョンのことは,人の子が死者たちのうちから復活するまで誰にも言わずにいなさい。
マタイによる福音書第17章第9節の一部が用いられている。イエスが弟子を3人だけ連れて「高い山」(伝説によるとタボル山) に上り,そこで変容し,現れたモーセとエリヤと語り合う (のを弟子たちが見る) というできごとの後,山を下りながら3人に対して彼が言った言葉である。
テキストはVulgataとは異なっており,BREPOLiSのVetus Latina Databaseにあるほかのラテン語聖書テキストを見ても一致するものはなかった (1枚だけ一致するカードがあるが,それはこのアンティフォナ自体が記されたものである)。
異なるのはなんといっても "visionem quam vidistis" というところである。同データベースにある諸々のラテン語聖書テキストではこれが
単に "visionem" (ここでは基本的に「ヴィジョン [幻] を」と訳すことになるだろうが,一応「見たものを」とも訳せる) となっているか,
"hanc visionem" ないし "visionem hanc" (「このヴィジョンを」) となっているか,
"visum", "quod vidissent", "quae viderant" (「(彼らが) 見たものを」) となっているか,
"rerum gestarum quas viderant" (「彼らが見たできごとを」) となっているか
であった。もとのギリシャ語聖書にはτὸ ὅραμα (ト・ホラマ) とあり,これは「見たものを」とも「ヴィジョン (幻) を」とも訳せる。
以上の情報に基づいて考える限り,このアンティフォナにおける "Visionem quam vidistis" という, 「見る」という意味の語あるいはそれに由来する語を2つ ("Visionem" と "vidistis" と) 重ねている形は意図的な変更によって生まれたもののように思えてくる。本当にそうなのか,確かなことは分からないが。
【対訳・逐語訳】
Visionem quam vidistis, nemini dixeritis,
あなたたちが見たヴィジョンのことは,誰にも言わずにいなさい,
前述のように,"visio" (>visionem) という語は一応「見たもの (見られたもの)」とも訳せなくはない。
しかしここでは関係詞節 "quam vidistis (あなたたちが見たところの)" がついており, 「あなたたちが見たvisio」となっている。「あなたたちが見た "見たもの"」では同じことを2回言っていておかしいので,ここでは「ヴィジョン」の意味に取るのがよいということになる。
donec a mortuis resurgat Filius hominis.
人の子が死者たちのうちから復活するまで。
「人の子」=こう話しているイエス自身。ここに限らず,福音書中でイエスは「私」という代わりにしばしば「人の子」と言っている。
これはダニエル書第7章第13節に現れるメシアの称号の一つであると同時に,イエスが (神であるだけでなく) 正真正銘の人間であることをも表しているという (参考:フェデリコ・バルバロ訳『聖書』新約聖書の部p. 18, マタイ9:6への註)。