入祭唱 "Gaudete in Domino semper" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ13)
Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, p. 21 (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じだが,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため後者のみ記す); Graduale Novum I, p. 11.
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更新履歴
些細な変更の場合は記録しないこともある。
2024年11月6~7日
「教会の典礼における使用機会」の部を大幅に書き改めた。
引用するVulgataのテキストとしてシクストゥス=クレメンス版 (おそらくBibleGatewayにあるもの) を用いてしまっていたのを,ドイツ聖書協会2007年第5版に改めた。
アンティフォナともとのラテン語聖書テキストとの比較をより正確にし,また,聖書テキストの一部がアンティフォナでは削られている理由の考察を加えた (「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部)。
対訳の部と逐語訳の部とを統合した。
動詞gaudeo, gaudereのより詳しい (laetor, laetariと対比しての) 説明を加えた (アンティフォナの対訳・逐語訳の部)。
"nota sit" の訳と文法的説明を改めた。
"in omni oratione" の解釈について,ギリシャ語原文を参照した上で解説を書き直した。
ほかにも訳文を少し改めるなど,いろいろと手直しした。
2021年12月21日
音源 (YouTube動画) を埋め込んだ。本文に変更はない。
2019年11月18日 (日本時間19日)
現在の方針に合わせてタイトルを変更し,導入部もすっかり新しくした。
「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部を新設し,それに伴い「対訳・解説・考察」の部を書き直した。その際特に,"Dominus prope est. Nihil solliciti sitis" の部分のネウマからの解釈に初歩的ともいえる誤りが含まれていたので修正した。
2018年12月9日 (日本時間10日)
投稿
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版Ordo Cantus Missae (Graduale Triplex/Novumはだいたいこれに従っている) では,今回の入祭唱はアドヴェント (待降節) 第3週に割り当てられている。
ただし1週間ずっとではなく,12月17日以降については別の定めがある。12月16日まででも,水曜日については別の定めがある。
2002年版Missale Romanum (ローマ・ミサ典礼書) においては,PDF内で "Gaudete", "iterum dico", "prope est" をそれぞれキーワードとする検索をかけて見つけることができた限りでは,今回の入祭唱 (らしきもの) はアドヴェント第3主日に割り当てられている。「らしきもの」と書いたのは,テキストがだいぶ短くされているためである。次にその全文を掲げる (アクセント記号は省略)。
こちらでは,アドヴェントにおいては各週日 (平日) に別々の入祭唱が設定されているため,今回の入祭唱が用いられるのは本当に主日だけとなる。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版Missale Romanum (ローマ・ミサ典礼書) では,今回の入祭唱はアドヴェント第3主日に置かれている。
こちらでは主日に歌った固有唱を続く週日 (平日) にも用いる (聖人の祝日などがない限り) のが基本だが,アドヴェント第3週はその点少し特殊である。この週の水曜日・金曜日・土曜日が「四季の斎日」と定められているからである。
四季の斎日とは何であるかについては,その日のためのミサ固有唱を扱う記事を書くときに解説したいと思う。今は,改革前典礼においてはアドヴェント第3週でも水・金・土曜日には今回の入祭唱は歌われない,ということだけお分かりいただければ十分である。
AMSにまとめられている8~9世紀の6つの聖歌書のうち,入祭唱に関係ある5つの聖歌書においては,今回の入祭唱はやはりアドヴェント第3主日に置かれている。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Gaudete in Domino semper: iterum dico, gaudete: modestia vestra nota sit omnibus hominibus: Dominus prope est. Nihil solliciti sitis: sed in omni oratione petitiones vestrae innotescant apud Deum.
Ps. Benedixisti, Domine, terram tuam: avertisti captivitatem Iacob.
【アンティフォナ】喜びなさい,主にあって常に。もう一度言います,喜びなさい。あなたたちの柔和さがすべての人々に知られているようにしなさい。主は近いのです。何も心配せずにいなさい。そうではなく (心配するのでなく),あらゆる祈祷において,あなたたちのさまざまな願いごとが神に知られるようになさい。
【詩篇唱】主よ,あなたはあなたの地を祝福なさり,ヤコブの捕囚を終わらせてくださいました。
アンティフォナに用いられているのはフィリピ人への手紙第4章第4–6節で,珍しく新約聖書がもとになっていることになる。
Vulgataのドイツ聖書協会2007年第5版の本文に採用されているテキストでは "Dominus prope est" の "est" がないが (もとのギリシャ語テキストも同様),写本によっては "est" を含んでいる (例:Cod. Sang. 70, pag. 161)。また同じくVulgataでは,終わりの "sed in omni oratione petitiones vestrae innotescant apud Deum" という部分にもう数語はさまっており,この部分の全体は次のようになっている。
この部分の省略を除けばアンティフォナのテキストはVulgata (上記 "est" ありのもの) に一致しており,これが実際にもとであったことも十分に考えられる。
省略が行われたのはなぜかだが,一つ考えられるのは,比較的重要でない部分なので短くされたということである。冒頭にある特徴的なメッセージ "Gaudete (喜びなさい)" 以外では,時期 (アドヴェント) 的に考えても旋律の盛り上がりから考えても特に重要なポイントは "Dominus prope est. Nihil solliciti sitis (主は近いのです。何も心配せずにいなさい)" にあると思われ,それ以外のところをあまり長々と歌うと焦点がはっきりしなくなるおそれがあるので言葉を削ったのではないだろうか。
詩篇唱に用いられているのは詩篇第84篇 (ヘブライ語聖書では第85篇) であり,ここに掲げられているのはその第2節である。テキストはローマ詩篇書にもVulgata=ガリア詩篇書 (ドイツ聖書協会2007年第5版) にも一致している (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。
この詩篇の第10節は,アンティフォナのメッセージに通ずるものを含んでいる (入祭唱の詩篇唱において,掲げられているのが1節だけであっても実はその詩篇全体が考えられているということについては,こちらの記事を参照)。
また,太字強調しなかったが,"inhabitet gloria in terra nostra"「栄光が私たちの地に住む」というのはヨハネによる福音書の冒頭部 (のうちなんといっても第14節) を想起させ,そしてこの福音書箇所が読まれるクリスマスをも思わせる表現ではないだろうか (この箇所が読まれるのは12月25日の「主の降誕・日中のミサ」)。
第11節は「(十字架によって実現した) 神の正義とあわれみとの両立」というキリスト教の中心的なメッセージを読み取ることもできる内容であり,
さらに,第12節の言葉が次の主日の入祭唱 "Rorate caeli desuper" を思わせるのも興味深い。
【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】
Gaudete in Domino semper:
喜びなさい,主にあって常に。
「喜びなさい」という勧め (というより命令) は,このアンティフォナの出典であるフィリピ人への手紙ではここに限らず何度も出てくる (第2章第18節,第3章第1節)。
冒頭の "Gaudete (喜びなさい)" という語はアドヴェント第3主日全体の性格 (クリスマスの喜びを先取りして喜ぶ) を規定しているため,和訳するときもこれを最初に持ってくるべきだと思い,敢えて倒置文にした。
同様に冒頭の語がその主日全体の性格を規定するような入祭唱の例として,四旬節第4主日の "Laetare" がある。これも「喜べ」という意味の語で,四旬節第4主日のもつ「復活祭の喜びを思って慰めを得る,励まされる」性格がこの語によって規定されるような形となっている点もアドヴェント第3主日とよく似ている。
ただ,四旬節第4主日のほうの動詞laetor, laetari (>laetare) は喜びを外に表すことを指すのに対し,今回のgaudeo, gaudere (>gaudete) は内面で喜ぶことを指す。復活祭の喜びと降誕祭の喜びとの差異がここに表れている,のかもしれない。
iterum dico, gaudete:
もう一度言います,喜びなさい。
modestia vestra nota sit omnibus hominibus:
あなたたちの柔和さがすべての人々に知られているように (しなさい)。
逐語訳に示した通り,"modestia" はいろいろに訳すことができる。いずれにせよ,自分の立場に固執しすぎず譲る用意がある,争わず穏やかであるといった性質のことを言っている。
この入祭唱には引用されていないが,もとの聖書ではすぐ前に,仲たがいしている2人の女性に仲直りを促す言葉 (それから,周りの人たちもこの2人を助けてやるようにと頼む言葉) がある。この "modestia" (原語 "ἐπιεικὲς") はその話との関係で言われている言葉だとも考えられる。
Dominus prope est.
主は近いのです。
この文は「主は (いつも) 近くにいてくださいますよ」という意味にも, 「主 (の再臨) は近いですよ」という意味にもとれる (ここで「近くに」と訳した "prope" という語は,空間的な近さにも時間的な近さにも用いられる。もとのギリシャ語 "ἐγγύς" も同様)。しかし,アドヴェントに歌われる以上,基本的には後者の意味,さらには当然「主 (の降誕) は近いですよ」という意味に聞こえる (再臨すなわち第2の来臨を降誕すなわち第1の来臨と結びつけて考える傾向をアドヴェントという季節は持っている。関連:入祭唱 "Populus Sion" の記事の中ほど,ハイモ Haymo のイザヤ書第30章第30節の解釈についての部分)。
いずれにせよ問題は,この文が直前の「あなたたちの柔和さ (寛大さ,慎ましさ)」云々と関連しているのか,それとも直後の「何も心配しないでいなさい」と関連しているのかである。
前者だとすれば,たとえば「主の再臨は近いから,それに備えてちゃんと生きなさい」という諭しだと考えられ,後者だとすれば,たとえば「主はいつも近くにいてくださるから (主はすぐ来てくださるから,というのも考えられる),何も心配いりませんよ」という慰め・励ましだと考えられる。Graduale Triplex/Novumにある句読点通りに読むとしたら,この "Dominus prope est" の前の文の終わりにあるコロン ( : ) はピリオド ( . ) より区切りとして弱いので,前者の解釈が適切だということになるはずである。クリスマスの準備の悔い改めの期間であるアドヴェントにふさわしい,とも言える。
ところが,この入祭唱の旋律がこのような解釈に対立する。
簡単にいうと,直前の "modestia vestra nota sit omnibus hominibus" という部分の終わりは明らかに一段落するような形になっているのだが,"Dominus prope est" は一段高い音域に移って盛り上がり,そのまま次の "Nihil solliciti..." に向かって大きな弧を描くように入ってゆく,という形になっているのである (次の楽譜はGraduale Novumに基づくもので,Triplexに記されている旋律とは少々異なる。今回の議論ではどちらの旋律を見ても問題ないが,Novum版のほうが以下述べることをいっそうよく実感できるとは思う)。
本来これが豊かな緩急などを伴って歌われるのだが (それはネウマから読み取ることができる),緩急なしでもよいので歌ってみていただきたい。まず "omnibus hominibus" のところで,ラの音でしばらく朗唱した後にゆるやかに下りてきてファの音で終止して一段落すること,それから "Dominus" 以降で次第に盛り上がって "Nihil" の最高音ドを頂点とする弧を描くようになっていることを感じ取っていただけるだろうか。
ネウマに基づいてもっと詳しい話をすると (本項と次項は読み飛ばし可),"prope" の "pe" についているネウマはGodehard Joppich (ゴーデハルト・ヨッピヒ) が「stringendoネウマ」と呼ぶものの一種である (cf. Godehard Joppich, "Die Liqueszenz. Eine semiologische Studie im Codex Hartker St. Gallen 390/391", in: Cantate canticum novum. Gesammelte Studien anlässlich des 80. Geburtstages von Godehard Joppich, Münsterschwarzach 2013, pp. 313–388, pp. 357–358)。Stringendoはイタリア語だが,楽語として通用しているのでご存じの方も多いかもしれない。楽語としては「急き込んで,次第に速く」という意味で用いられているが,ここでは必ずしも次第に速くという意味ではなく, 「迫る,切迫する」という意味に捉えるのが適切であろう。つまり,緊張感を増してゆき,次にくる大切な語を強調する準備をするのがこのネウマの役割である。
というわけでここでは次の "Nihil" が特に強調されている語であり,この語のアクセント音節 "Ni" についているBivirga,さらに終わりの音節 "hil" が長く歌われ融化ネウマまでついていることがそれを裏書きする。終わりの音節がこのようになっているとなぜその語が重要である (強調される) ことが分かるかというと,強く強調されればされるほど,そのエネルギーに収まりをつけるための時間が必要だからである (参考:上掲書p. 325以下およびp. 354以下。ただしこの "Nihil" 自体についてここに書かれているわけではないので,不適切な解釈であれば私の責任である)。
少々脇道にそれたが,ともかくそういうわけで旋律からすると "Dominus prope est" で一区切りになるとは考えられず,Graduale Triplex/Novumについている句読点とは矛盾するものの,この一文は前ではなく次につながるものだと解釈して間違いない。「主は近いのです,何も心配せずにいなさい」。
そもそもこれらの句読点は後の時代につけられたものなので,グレゴリオ聖歌が成立したころ・書き留められたころの人々の解釈とは関係ない。そしてGraduale Triplexも,テキストにはこのように句読点を打っているにもかかわらず,四線譜では "omnibus hominibus:" の後に大区分線,"Dominus prope est." の後に中区分線を引き,同様の解釈をとっていることが分かる。Graduale Novumでは前者が中区分線,後者が小区分線で,"Nihil" に向かう勢いが失われないという点でさらに改善されているといえる。
Nihil solliciti sitis:
何も心配せずにいなさい。
sed in omni oratione petitiones vestrae innotescant apud Deum.
訳1-1:そうではなく (心配するのでなく),あらゆる祈祷において,あなたたちのさまざまな願いごとが神に知られるようになさい。
訳1-2:(……) あらゆる祈祷によって,(……)
訳2 (採らないほうがよさそう):(……) あらゆることにおいて,祈祷において/よって,(……)
理論上,"in omni oratione" の解釈が2つ考えられるように思われる。一つは "omni" が "oratione" にかかる形容詞であると考えるもの (訳1),もう一つは "omni" が名詞的に用いられていると考えるもの (訳2) である。
以下この問題を考えてゆくが,"omni" (と "oratione") が単数・奪格形であるということを,特に単数形であるということを押さえた上で読み進めていただきたい。もとの聖書箇所のギリシャ語原文では,一義的に「すべてのことにおいて,祈祷によって」となっている (つまり上記でいうところの訳2側)。この箇所にあたるのは "ἐν παντὶ τῇ προσευχῇ" だが,"omni" にあたる "παντὶ" が男性または中性の形,"oratione" にあたる "τῇ προσευχῇ" が女性形なので,前者が後者にかかっていると解釈するのは不可能なのである。
では訳2を採ればよさそうなものだが,これをためらわせるデータがある。コンコルダンス (Fischer 1977) を用い,Vulgataにおいて "in omni" というのが出てくる箇所を探したところ201箇所見つかったのだが (※),そのすべてにおいて,直後 (あるいは接続詞などを挟んでその後) に単数・奪格の名詞 (名詞的に用いられた形容詞を含む) が続いていたのである。いちいち文脈を確認したわけではないので,201箇所すべてにおいて "omni" が間違いなく次の奪格の名詞にかかる形容詞としての働きをしていると断言することこそ私にはできないが,例外なく単数・奪格の名詞が続いているという事実は強くそれを示唆するものではあろう。
それに対し,"in omnibus" (複数形) だと "omnibus" が明らかに名詞的に用いられている例がたくさんあった。ここから, 「すべてのこと (もの) において」と言いたいときには少なくともVulgataでは必ず複数形 "omnibus" を用いることになっていることがうかがえる。
というわけで,入祭唱のこの部分は (Vulgataも) 聖書のギリシャ語原文と同じようには解釈しないほうがよさそうである。つまり,訳1を採ることになる。
いや,もしかするとVulgataのこの部分を訳した人は "omni" を名詞的用法のつもりで書いたのかもしれないが (ギリシャ語原文でここは単数形なので,何も考えずそのままラテン語に移せば "omni" となるのである),たとえそうであっても,上記のような事情から,Vulgataのこの箇所を読んだ後代の人々 (グレゴリオ聖歌成立期の人々を含む) は "omni" を "oratione" にかけて読んでいた可能性が大きいと思われる。なお,Nova Vulgata (第2バチカン公会議後に発行された新しいVulgata) ではこの箇所は "sed in omnibus oratione"... となっており,これは間違いなくギリシャ語原文と同じく「すべてのことにおいて,祈りによって」である。
【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】
Benedixisti, Domine, terram tuam:
主よ,あなたはあなたの地を祝福なさいました。
avertisti captivitatem Iacob.
あなたはヤコブの捕囚を終わらせてくださいました。
直訳1:(……) 転じてくださいました。
直訳2:(……) 遠ざけてくださいました。
イスラエルの民の「イスラエル」はもともと個人名からきており,その族長イスラエルのもとの名は「ヤコブ」である (創世記第32章第29節参照)。このことから,「ヤコブ」の名で神の民イスラエルを指すことがよくある。
つまり「ヤコブの捕囚」とは神の民イスラエルが捕囚されていたこと,すなわちバビロン捕囚を指す表現である。