入祭唱 "Iudica me" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ71)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 120; GRADUALE NOVUM I p. 89.
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 GRADUALE NOVUMでは子音字としてのiをjで記すため,この入祭唱は "Judica me" と始まっている。
 

【教会の典礼における使用機会】

 昔も今も,四旬節第5主日に歌われる。

 ただし,1962年版ミサ典書 (旧典礼,すなわち現行の「特別形式」ローマ典礼のミサを行うときに用いられる典礼書) ではこの主日は「受難節第1主日」と呼ばれている。この日から始まる四旬節最後の2週間を特に「受難節」扱いしているのである。なお,多くのプロテスタント教会では四旬節全体のことを「受難節」と呼ぶが,それとは期間が異なるので注意を要する

 さらにさかのぼって,1474年 (つまりトリエント公会議より前) のミサ典書を見てみると,そこではこの主日はただ「受難の主日 (DOMINICA DE PASSIONE)」と呼ばれている。この名称は,現在の「通常形式」ローマ典礼 (今のカトリック教会で最も広く行われている典礼) では棕櫚しゅろの主日 (枝の主日。今回話題にしている四旬節第5主日の1週間後) の別名として現れることがあるので,これも混同しないよう気をつける必要がある。

 AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書の中では,コンピエーニュ (Compiègne) の聖歌書 (9世紀後半) だけが「受難の主日」という語を用いており,ほかは単に四旬節第5主日であることを示しているか,それすら記さずただ「主日」としているかである。

 いずれにせよ,この日のミサ固有唱 (拝領唱以外,つまり入祭唱・昇階唱・詠唱・奉納唱は新旧典礼共通) は,受難に向かうイエス・キリスト自身の声ととれる内容に満ちている。今回の入祭唱も,そういうものとして読むのがよいのではないかと思う。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Iudica me, Deus, et discerne causam meam de gente non sancta: ab homine iniquo et doloso eripe me: quia tu es Deus meus, et fortitudo mea.
Ps. Emitte lucem tuam, et veritatem tuam: ipsa me deduxerunt, et adduxerunt in montem sanctum tuum[, et in tabernacula tua].
vel: Quare me repuli[st]i[?] [q]ua[r]e [tr]i[st]i[s] i[nc]e[d]o [d]u[m] a[dfl]i[g]i[t] [m]e i[n]i[m]i[cu]s[?]
【アンティフォナ】私を裁いてください,神よ,そして私の訴えを聖ならざる民から区別してください。不正で悪だくみする人間から私を引きはがしてください。あなたこそ私の神,私の強さなのですから。
【詩篇唱】あなたの光と真理とを送ってください。それらは私を連れ去り,あなたの聖なる山 [とあなたの幕屋] へ連れていってくれたのです。
または: なにゆえ私を突き放されたのですか。なにゆえ私は悲しく歩む (歩まなければならない) のですか,敵が私を打ちのめすとき。

↑  詩篇唱は "Quare me …" のほうが歌われている。

 アンティフォナの出典は詩篇第42篇 (ヘブライ語聖書では第43篇) 第1節全体と第2節のはじめであり,詩篇唱も同じ詩篇から取られている (ここに掲げられているのは第3節)。前者のテキストはローマ詩篇書に,後者のテキストはVulgata=ガリア詩篇書にそれぞれ一致している (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。

 詩篇唱の最後,"et in tabernacula tua" の部分は,GRADUALE TRIPLEX / NOVUMがこの入祭唱で底本にとっている2つの古い聖歌書のうちの一つであるEinsiedeln 121には記されていない。それに従い,聖歌の本来の姿を復元することを旨とするGRADUALE NOVUMはこの部分を含んでいない。なお,もう一つの底本Laon 239には詩篇唱のテキストはきちんと記されていないので (どの詩篇だか分かるように冒頭が記されているだけ),こちらは参考にならない。

  「または (vel)」以下の部分は活字にはなっていないが,GRADUALE TRIPLEXに手書きで記されている。これは,Einsiedeln 121から書き写されたものである (Einsiedeln 121には詩篇唱としてこれだけが記されているということではなく,ここにもまず "Emitte lucem tuam …" が記されており,それに続けてこれがもう一つの選択肢として記されている)。途中から母音のみの表記になっており,その部分の子音はVulgata=ガリア詩篇書によって補った。アンティフォナの出典は第1節全部と第2部のはじめだと述べたが,その第2節の残りの部分がこれである。
 

【対訳】

【アンティフォナ】

Iudica me, Deus, 
私を裁いてください,神よ,

  •   「私を裁いてください」という一文を見ると,「私は悪いことをしましたのでどうぞ罪に定めてください,罰をお受けします」という意味かと思うが,もとのヘブライ語聖書においてここで実際に意図されていることはどうもそうではなく,むしろ逆らしい。手元のヘブライ語の辞書 (Gesenius) を引くと,たしかに「裁く」という意味が載っているものの,「裁く」にもいろいろあることが記されており,その中に「困っている人が本来あるべき状態 (正しい状態,その権利があるところの状態) まで回復するのを助ける」というのもあり,この意味での用例の一つとしてこの詩篇第42 (43) 篇第1節が挙げられているのである。
     実際,さまざまな英語聖書 (ラテン語からではなくヘブライ語原典から訳されたもの) を見ると,この箇所は "Vindicate me" "Justify me" などと訳されていることが多く,つまり「私の正当性を示してください (裁判で私に勝たせてください)」ということで,このほうが文脈にも合う (続きをお読みになればお分かりのように,これは懺悔の詩篇ではなく,捕囚の地にあって助けを求める詩篇である)。そうであれば日本語でもそのような意味をはっきり出して訳したいところで,実際,例えば新改訳聖書はここを「私のためにさばいてください」としている。

  •  七十人訳ギリシャ語聖書では,ここに用いられているのはκρίνω (クリーノー) という動詞であり,これの基本的な意味は「分ける,区別する」である。もしこの意味に取るならば,「私を (悪しき者たちから) 分けてください,引き離してください」ということのようにも思え,すると次の文と同じような内容になるので都合がよさそうである。

  •  しかし,ヘブライ語やギリシャ語はともかく,"iudica" というラテン語を無理なく以上のいずれかのように解釈できるかどうかを考えなければならない。このラテン語テキストだけを持っていた中世前期の人々の理解からあまりに離れてしまうことをなるべく避けるためにもである。

  •  では実際のところ中世前期の人々はこのテキストをどう解釈していたのかということを探るべく,当時の修道院で読まれていたアウグスティヌスの『詩篇講解』の対応する部分を読んでみると,
    《彼 [=「誰であれキリストの体のうちにある者」] は言う,「神よ,わたしを裁きたまえ」と。わたしはあなたの裁きを恐れない。なぜなら,わたしはあなたの憐れみを知っているからである。》(『アウグスティヌス著作集 第18巻II 詩編注解 (2)』教文館,2006年,p. 338)
    とあり,「わたしはあなたの裁きを恐れない」云々という註解がついていることから,文字通りに「私を裁いてください」という意味にとられていたことがうかがえる。しかし同時に,この「私を裁いてください」という言葉が懺悔を意味するものではやはりないことも分かる。
     これをイエス・キリストの声ととるならば,アウグスティヌスのこの註解は「私は受難を恐れない。なぜなら,わたしはあなたがわたしを復活させてくださることを知っているからである」という意味にも聞こえてくるな,と個人的には思う。

  •  同じく当時の人々に読まれていたカッシオドルスの詩篇講解では,次の文までまとめて解説されているのだが,「"iudica me" と言うことは,"et discerne causam meam (私の訴えを [聖ならざる民から] 区別してください)" と付け加えることなしには危険であったことだろう」(PL 第70巻第307段。Walshによる英訳版 [1990] 第1巻p. 424。そうでないと悪しき者たちと一緒くたに扱われてしまうから,ということ) という言葉があり,ここでも "iudica" は単純に「裁いてください」の意味に解されていることがうかがえる。

et discerne causam meam de gente non sancta:
そして私の訴えを聖ならざる民から区別してください。

  •  詩篇作者は捕囚の地バビロンにいて,「聖ならざる民」すなわち異邦人 (神の民イスラエルの対概念) の中で暮らしている。

ab homine iniquo et doloso eripe me:
不正で悪だくみする人間から私を引きはがしてください。
別訳:(……) 救ってください。

quia tu es Deus meus, et fortitudo mea.
あなたこそ私の神,私の強さなのですから。

【詩篇唱】

Emitte lucem tuam, et veritatem tuam:
あなたの光と真理とを送ってください。

ipsa me deduxerunt,
それらは私を連れ去りました,

et adduxerunt in montem sanctum tuum[, et in tabernacula tua].
そしてそれらは (私を) あなたの聖なる山 [とあなたの幕屋] へ連れてゆきました。

【詩篇唱のもう一つの選択肢】

Quare me repulisti? 
なにゆえ私を突き放されたのですか。

quare tristis incedo
なにゆえ私は悲しく歩まねばならないのですか,
直訳:
なにゆえ私は悲しい者として歩むのですか,

dum adfligit me inimicus?
敵が私を打ちのめしている間。
別訳:敵が私を打ちのめすとき。

  •  接続詞 "dum" は本来は持続的な時間を表すもので,つまり「~する/である間」(英:while, during) という意味だが,教会ラテン語では単に「~する/であるとき」(英:when) の意味である "cum" との区別があまりなくなっているので,この別訳が可能になる。

  •  ただし今回の場合,「~とき」といっても一回限りのことではなく,「敵が私を打ちのめすたびに」という意味にとるのがよい。七十人訳ギリシャ語聖書で "adfligit" に当たる動詞の形が,継続または反復される動作を表すものになっているからである。
     

【逐語訳】

【アンティフォナ】

iudica 裁いてください (動詞iudico, iudicareの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

  •  この語の解釈については,対訳の部で詳しく検討した。

me 私を

Deus 神よ

et (英:and)

discerne 分けてください,引き離して下さい,区別してください (動詞discerno, discernereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

causam meam 私の訴えを (causam:訴えを,meam:私の)

de ~から

gente non sancta 聖ならざる民 (単数・奪格) (gente:民,non:[否定詞],sancta:聖なる)

ab ~から

homine iniquo et doloso 不正であり悪だくみする人 (単数・奪格) (homine:人,iniquo:不正な,et:英 "and",doloso:悪だくみする・欺く [形容詞])

eripe 引きはがしてください,解放してください (動詞eripio, eripereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

me 私を

quia なぜなら~から (英:because)

tu あなたが

es あなたが~である (英語でいうbe動詞sum, esseの直説法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

Deus meus 私の神 (主格) (Deus:神,meus:私の)

et (英:and)

fortitudo mea 私の強さ (主格) (fortitudo:強さ,mea:私の)

【詩篇唱】

emitte 送ってください (動詞emitto, emittereのの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

lucem tuam あなたの光を (lucem:光を,tuam:あなたの)

et (英:and)

veritatem tuam あなたの真理を (veritatem:真理を,tuam:あなたの)

ipsa それらが (中性・複数・主格)

  •  本来英語でいうhimself/herself/itselfのような意味・使われ方の語だが,教会ラテン語ではこのように単に代名詞としても用いられる。

  •  "lucem" (<lux) と "veritatem" (<veritas) とを指しているが,いずれも女性名詞であり,なぜこの代名詞が中性形をとっているのか分からない。もしかすると,七十人訳ギリシャ語聖書でここは中性形なのだが (こちらはおかしくない。ギリシャ語では,「真理」は女性であるものの「光」が中性なので),それをそのままラテン語に移してしまったのかもしれない。
     なお "ipsa" は女性・単数・主格でもありうる形だが,この主語に対する述語動詞 "deduxerunt" (2つ後に現れる) が複数の形なので,主語 "ipsa" も複数形と取らざるを得ず,したがって中性と解釈するしかない (もし女性・複数なら "ipsae" になる)。

me 私を

deduxerunt 連れ去った (動詞deduco, deducereの直説法・能動態・完了時制・3人称・複数の形)

et (英:and)

adduxerunt 連れて行った,導いていった (動詞adduco, adducereの直説法・能動態・完了時制・3人称・複数の形)

in montem sanctum tuum あなたの聖なる山へ (montem:山 [対格],sanctum:聖なる,tuum:あなたの)

et (英:and)

in tabernacula tua あなたの幕屋へ (tabernacula:幕屋 [複数・対格],tua:あなたの)

【詩篇唱のもう一つの選択肢】

quare なにゆえ~か

me 私を

re(p)pulisti あなたが突き放した,あなたが拒絶した (動詞repello, repellereの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)

quare なにゆえ~か

tristis 悲しい,悲しい者として (形容詞,単数・主格)

  •  次の動詞 "incedo" に隠れている主語「私」を修飾している,あるいはそれと同格である。

incedo 私が歩む (動詞incedo, incedereの直説法・能動態・現在時制・1人称・単数の形)

  •  本来もう少し細かいニュアンスがあるらしい語だが,どう訳したものかよく分からないし,それに七十人訳ギリシャ語聖書の対応箇所を見たらごく一般的な「歩む,行く」という意味の動詞だったので,とりあえずこうしておく。

dum ~の間,~のとき (英:while, when)

  •  後者の意味に取る場合,今回は,一回限りでなく反復される動作のことを言っていると考えるほうがよいということについて,対訳の部で解説した。

adfligit 打ちのめす,打ち倒す,悲しくさせる,意気消沈させる (動詞adfligo, adfligereの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)

  •  "affligit" という形もある。

me 私を

inimicus 敵が (単数)


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