拝領唱 "Nemo te condemnavit, mulier?" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ126)
Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, p. 124 (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じなので,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため原則として後者のみ記す).
Graduale Novum I, p. 94.
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2025年2月23日 (日本時間24日)
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【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
「四旬節」「主日」「A年」などの用語についてはこちら。
1972年版Ordo Cantus Missae (Graduale Triplexはだいたいこれに従っている) では,次の機会に今回の拝領唱が用いられることになっている。
四旬節第5主日 (ヨハネによる福音書第8章第1–11節が朗読される場合)。
四旬節第5週の月曜日 (同上)。
A年とB年の四旬節第5主日には,ヨハネ8:1–11 (「姦通の女」の話) は朗読されない。この場合,この箇所は翌日の月曜日に朗読される。C年の四旬節第5主日には原則としてこの箇所が朗読され,このときには翌日の月曜日には別の箇所が朗読される。
なお,いつもならこういうとき単に「四旬節第5主日 (C年)」と書かれるところ,どうしてわざわざ上記のように書かれているのかというと,その教会に洗礼志願者 (その年の復活徹夜祭で洗礼を受けることになっている人) がいる場合,C年でもA年の朗読箇所を用いることができるためである (B年も同様)。
2002年版ローマ・ミサ典礼書 (Missale Romanum) においても同様である (PDFをGoogle Chromeで開き,"Nemo te","condemnavit" をそれぞれキーワードとするページ内検索をかけて見つけることができた限りでは)。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版ローマ・ミサ典礼書 (Missale Romanum) では,PDF内で上記同様に検索をかけて見つけることができた限りでは,今回の拝領唱は四旬節第3週の土曜日 (表記は「四旬節第3主日後の土曜日」) に置かれている。
この日の第1朗読がスザンナの話 (Vulgataでダニエル書第13章。「旧約聖書続編付き」の聖書協会共同訳聖書や新共同訳聖書に「ダニエル書補遺 スザンナ」として収録されているもの) であることは,福音書朗読箇所ヨハネ8:1–11との関連で注目に値する。
旧約の貞淑なスザンナが,その潔白のゆえに,預言者ダニエルによって石打ちから守られたのは素晴らしいことである。しかし,福音書に登場する罪を犯した女が,有罪であるにもかかわらず,主の御言葉によって赦しを得て罰を免れたのは,もっと素晴らしいことである。
AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書でも同様である (AMS第59欄)。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Nemo te condemnavit, mulier? Nemo, Domine. Nec ego te condemnabo: iam amplius noli peccare.
「誰もあなたを罪に定めなかったのか,女よ」
「はい,主よ」
「私もあなたを罪に定めまい。もうこれ以上罪を犯してはならない」
福音書中のさまざまな記事の中でも特に名高いものであろう「姦通の女 (姦淫の女)」の話 (ヨハネによる福音書第8章第1–11節) の最後に,イエスと女との会話がある。その部分を短くまとめたものが,この拝領唱のテキストとなっている。
上の訳文においては,多くの日本語聖書で採用されているような文体でイエスの言葉を訳した。ほかの場面ならいざ知らず,この場面にばかりは厳粛さがあったほうがよいと思うのでこうすることにしたのだが,イエスが初対面の相手と話しているという状況を考慮するならば,
「誰もあなたを罪に定めなかったのですか,女の方」
「はい,主よ」
「私もあなたを罪に定めますまい。もうこれ以上罪を犯してはなりません」
と丁寧語を用いて訳すことも考えられよう。
Vulgata (ドイツ聖書協会2007年第5版) の対応箇所は次のようになっている。太字は今回の拝領唱に (語順は別として) そのまま現れる語である。
erigens autem se Iesus dixit ei (さて,イエスは身を起こして彼女におっしゃった)
mulier ubi sunt (女よ,彼らはどこにいるのか)
nemo te condemnavit (誰もあなたを罪に定めなかったのか)
quae dixit (すると彼女は言った)
nemo Domine (はい,主よ)
dixit autem Iesus (するとイエスは言った)
nec ego te condemnabo (私もあなたを罪に定めまい)
vade et amplius iam noli peccare (行きなさい,そしてもうこれ以上罪を犯してはならない)
最大の相違点は,拝領唱では地の文が省かれていることであろう。つまりイエスと女の言葉だけになっているわけで,これにより,この言葉が交わされている場面がいっそう直接的に感じられるように (やや大げさにいえば,劇を見ているように) されているともいえるだろう。
「姦通の女」の記事全体を次に引用する。
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。
【対訳・逐語訳】
Nemo te condemnavit, mulier?
「誰もあなたを罪に定めなかったのか,女よ」
nemo 誰も~ない (英:nobody, no one)
te あなたを
condemnavit 罪に定めた → “nemo” と合わせて, 「罪に定めなかった」(動詞condemno, condemnareの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
mulier 女よ
Nemo, Domine.
訳1:「誰も,主よ」
訳2:「はい,主よ」
nemo 誰も~ない (英:nobody, no one)
Domine 主よ
ラテン語には (古代ギリシャ語にも)「はい」「いいえ」にあたる語がないのだが,もしあったならば女は単に「はい」(否定文なので,英語ならば “no”) と答えていたことだろう,と考えたのが訳2である。全体訳ではこちらを採用した。
Nec ego te condemnabo:
「私もあなたを罪に定めまい。
nec ~もまた~ない (英:neither)
ego 私が
te あなたを
condemnabo 罪に定めよう,有罪判決を下そう → “nec” と合わせて, 「罪に定めまい」, 「有罪判決を下すまい」(動詞condemno, condemnareの直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形)
ギリシャ語原文 (Nestle-Aland, ドイツ聖書協会2012/13年第28版) では,未来時制でなく現在時制になっている (聖書協会共同訳・新共同訳「私もあなたを罪に定めない」)。同版の註を見る限りでは,この箇所には現存の写本間の相違もないようである。
Vulgataやこの拝領唱のテキストで未来時制になっているのはどういう経緯・理由によるものか分からないが,ともかくそういうわけで上記のように,聖書協会共同訳などとは異なる訳し方をすることになる。
iam amplius noli peccare.
もうこれ以上罪を犯してはならない」
iam (否定文において) もはや,二度と
amplius さらに,もっと (副詞ampleの比較級) ……手元の辞書での見出し語は “amplus” である。これは副詞ampleのもとである形容詞の男性・単数・主格形。
noli ~してはならない (動詞nolo, nolleの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
peccare 過ちを犯す,罪を犯す,間違う (動詞pecco, peccareの不定法・能動態・現在時制の形)