入祭唱 "Da pacem, Domine, sustinentibus te" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ90)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 336; GRADUALE NOVUM I pp. 325–326.
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【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版Ordo Cantus Missae (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,年間第24週に割り当てられている。ほかに,教会暦関係なしの「種々の機会のミサ」のうち「平和と正義が保たれるためのミサ」のための入祭唱としても指定されている。
2002年版ミサ典書でも同じ (ただし「年間第24週」ではなく「年間第24主日」と記されている)。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版ミサ典書では,聖霊降臨後第18主日の入祭唱となっている。こちらでも,平和のための随意ミサの入祭唱としても用いられることになっている。
AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書では,Rheinau (ライナウ) の聖歌書のみなぜか「[聖霊降臨の] 八日間後第19主日」と記しているが,Mont-Blandin (モン=ブランダン),Corbie (コルビ),Senlis (サンリス) では「第18主日」である。Compiègne (コンピエーニュ) の聖歌書の当該部分は失われている。
なお「第18主日」の前 (原文の語順では後) には何もついていないこともあれば,「聖霊降臨後」とついていることもあれば,「聖霊降臨の八日間後」とついていることもある。「聖霊降臨後」と「聖霊降臨の八日間後」とでは普通に考えたら1週間ずれるはずだが,たぶんこれは,聖霊降臨の八日間が実際には7日間しかない (土曜日で終わる) ので結局同じことになる,ということではないかと思う。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Da pacem, Domine, sustinentibus te, ut prophetae tui fideles inveniantur: exaudi preces servi tui, et plebis tuae Israel.
Ps. Laetatus sum in his quae dicta sunt mihi: in domum Domini ibimus.
【アンティフォナ】主よ,あなたをじっと待ち望んでいる者たちに平和をお与えください,あなたの預言者たちが信頼に足る者たちであると示されるために。あなたの僕の,またあなたの民イスラエルの願いを聞き入れてください。
【詩篇唱】私はこう言われて喜んだ,「主の家に行こう」。
アンティフォナはシラ書第36章から取られているが,このあたりの章の節番号には (箇所によっては章番号にも) いろいろなつけかたがあってややこしい。GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEXは「第18節」としており,実際Vulgataを見ると第18節にこのアンティフォナに対応する部分があるが,Vetus Latina (Vulgata以前のいろいろなラテン語訳聖書テキスト) 手元のドイツ聖書協会版七十人訳ギリシャ語聖書 (第2版) では第15節 (写本によっては第21節だと註にある) となっているし,聖書協会共同訳では第21節となっている。
最も中心的なもののように少なくとも私には感じられる「平和を (pacem)」という言葉はVulgataにも七十人訳にもなく,いずれにおいてもここは「報酬を」と書いてある。Vulgata以前のいろいろなラテン語訳聖書テキスト (Vetus Latina) も見てみたが,いつも使っているデータベース (BREPOLiSのVetus Latina Database) で確認できた限りでは,ここを "pacem" としているのはこの入祭唱アンティフォナ自体だけだった。というわけで,これは典礼文の成立過程における意図的な変更によるものであろうと思われる。
"exaudi" 以下の部分は,Vulgataをはじめとするさまざまなラテン語訳聖書テキストでも言っていることはまあ同じであるものの,言い方がこの入祭唱では異なっている。特に最後の "plebis tuae Israel (あなたの民イスラエルの)" という言い方は,終課 (Completorium,寝る前の祈り。聖務日課の一つ) で毎日歌われるシメオンの讃歌 (Nunc dimittis) に現れる特徴的なものであり (16世紀のシクストゥス・クレメンス版Vulgataのコンコルダンスで調べた限りでは,この箇所が唯一),無関係ではない気がする。また "servi tui (あなたの僕の)" はこれよりは一般的かと思うが,これまたシメオンの讃歌に現れる言い方である (ただしこちらは対格で "servum tuum"。シメオンはこの言葉で自分自身を指している)。そういえば,シメオンは「メシアを見るまでは死ぬことはない」とのお告げを受けてずっと「待ち望んで」いた人ではないか (ルカによる福音書第2章第25–32節参照)。しかも彼は幼子イエスを見て何と言ったか,"Nunc dimittis servum tuum, Domine, secundum verbum tuum in pace (今こそあなたはあなたの僕を,主よ,御言葉通り,平和のうちに去らせてくださいます)" と言ったではないか。
こう考えてくると,この入祭唱アンティフォナ全体が実は (幼子イエスを見る前の) シメオンの祈りなのではないかと私には思えてならない。
さらにいうと,今回の入祭唱が歌われる時期は改革後典礼 (年間第24主日/週) で9月半ば,改革前 (聖霊降臨後第18主日) も9月半ばから10月半ばのどこかであり,いずれにせよ秋である (なお,古くは聖霊降臨後第18主日は必ず秋の「四季の斎日」の直後に来ていた)。秋は老年を連想させ,伝統的なシメオンのイメージに重なる (聖書にはシメオンが老人であったとは書いていないが)。しかも,改革前典礼における聖霊降臨後の諸主日は大きく2つに分けられるそうで,この第18主日から終末を思う・キリストの再臨を待つ性格を持った時期になるらしい (参考:Volksmissale, p. 565 T)。キリストの再臨を待つというのが,メシアを待っていたシメオンの状況に重なりはしないだろうか。
詩篇唱にとられているのは詩篇第121篇 (ヘブライ語聖書では第122篇) であり,ここに掲げられているのはその第1節である。テキストはローマ詩篇書にもVulgata=ガリア詩篇書にも一致している (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。
【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】
Da pacem, Domine, sustinentibus te,
平和をお与えください,主よ,あなたをじっと待ち望んでいる者たちに,
動詞sustineo, sustinere (>sustinentibus) は本来「高く持ち上げた状態で保つ」という意味で,そこから「耐える」などという意味にもなる。渇望する・待ち焦がれるというよりは,忍耐強く待つという感じである。もとのギリシャ語ὑπομένωは「留まる」「堅く立つ」といった意味であり,聖書ではやはり「忍耐強く待つ」という意味でよく用いられているらしい。
ut prophetae tui fideles inveniantur:
あなたの預言者たちが信頼に足る者たちであると示されるために。
直訳:(……) 信頼に足る者たちとして見つけられるために。
つまり,「主」による救いを待ち望んでいる者たちに平和が到来することが預言者たちによって予告されており,その予告が嘘にならないようにということ。預言者たちの名誉のためというよりは,「主」を信じることが空しくないこと,「主」が本当に神でありしかも自分たちを救ってくださる神であることを示してくださいということだろう。この意味で,「あなたを待ち望む者は皆,恥を見ることがあってはならない」(詩篇第24 [25] 篇第3節,入祭唱 "Ad te levavi" にあるテキストからの訳) の別の言い方とみることもできるだろう (なお,これを「……あってはならない」と訳すのはおかしいのではという尤もな疑問をお持ちになる方がいらっしゃるかと思うが,この問題についてはAd te levaviの記事をお読みいただきたい)。
exaudi preces servi tui, et plebis tuae Israel.
あなたの僕の,またあなたの民イスラエルの願いを聞き入れてください。
別訳:あなたの僕にしてあなたの民であるイスラエルの願いを聞き入れてください。
私自身は,前述したような事情でこの入祭唱の背後にシメオンを (そうでないにしても彼に似た誰かを) 見ているため,別訳は採りたくない。つまり,「あなたの僕」はこの入祭唱テキストで祈っている個人 (私にとってはシメオン) のことだと考えたい。
【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】
Laetatus sum in his quae dicta sunt mihi:
私は喜んだ,こう言われて。
直訳:私は喜んだ,私に言われたこれら (のこと) について。
"quae" 以下は "his"「これら (のこと)」を受ける関係詞節。
in domum Domini ibimus.
「主の家」とはエルサレム神殿のこと。