拝領唱 "Laetabimur in salutari tuo" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ97)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 359; GRADUALE NOVUM I p. 226.
gregorien.info内のこの聖歌のページ
【教会の典礼における使用機会】
後日追記する。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Laetabimur in salutari tuo: et in nomine Domini Dei nostri magnificabimur.
われわれはあなたの救いのうちに喜ぶことでしょう。われらの神である主の御名のゆえに,われわれは強大になることでしょう。
詩篇第19篇 (ヘブライ語聖書では第20篇) 第6節が用いられている。節番号の区切り方が一定ではないようで,ローマ詩篇書やVulgata=ガリア詩篇書ではこの拝領唱にあたる部分だけが第6節を成しているのに対し,七十人訳ギリシャ語聖書 (ドイツ聖書協会2006年版) やヘブライ語聖書 (ドイツ聖書協会1997年版) では同節にもう1行入っている。
テキストはローマ詩篇書に一致している。Vulgata=ガリア詩篇書では "Domini (主の)" がない。
(「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら。)
【対訳・逐語訳】
Laetabimur in salutari tuo:
われわれはあなたの救いのうちに喜ぶことでしょう。
別訳:(……) 救いゆえに (……)
et in nomine Domini Dei nostri magnificabimur.
そして,われらの神である主の御名のゆえに,われわれは強大になることでしょう。
別訳:(……) 偉大なものとされることでしょう。
"magnificabimur" の解釈にはさまざまな意見があろうと思う (ちなみに,聖母マリアによる讃歌で有名な "magnificat" と同じ動詞の受動態である)。以下,さまざまな方面から検討する。
動詞magnifico, magnificareの字面通りの意味は「大きくする」で,そこから「高く評価する」「ほめたたえる」「讃嘆する」「高める」といった意味で用いられる。
さらに手元の2つの教会ラテン語辞典を見ると,Sleumerはこの動詞の受動態のときの意味として「誇る (sich rühmen)」「強大である (gewaltig sein)」というのを挙げており,Blaiseはまさにこの詩篇第19篇第6節での (つまりやはり受動態のときの) 意味として「気持が高ぶる,興奮する (s'exalter)」「喜ぶ,嬉しく思う (se réjouir)」というのを挙げている。七十人訳ギリシャ語聖書での対応箇所にはμεγαλύνωという動詞の受動態が用いられており,手元の七十人訳特化辞書には,受動態のときの意味としては「偉大にされる (to be made great)」「強力になる (to become powerful)」などが載っている。それに対し,「誇る,自慢する (boast)」というのが中動態 (ドイツ語でいう再帰動詞,フランス語でいう代名動詞だと思っていただければよい) のときの意味として載っており,今回は中動態ではなく受動態であるから,上にさまざま挙げたラテン語の意味のうち「誇る」は捨てるのがよいということになろう。
同じ詩篇第19篇の第8節 (いま問題にしている箇所の2節あと) に
とあり (←この左に箇条書きの点がついてしまっているのはnoteの仕様上避けられなかっただけなので無視していただきたい),再び "in nomine Domini Dei nostri magnificabimur" という語句が現れている。戦車や馬によってというのと並べられていることから考えて,この "magnificabimur" は「強くなる」という方向の意味に取るのが適切だろう。
同じ語・同じ語句だから同じように訳すべきだとは限らないが,今回は (この詩篇をお読みいただければお分かりのように) 両者の間で話の流れが変わっていないので,素直に同じ意味に取ればよいだろう。というわけで,Sleumer,もとのギリシャ語,同じ詩篇の第8節から考えて,さらには問題の動詞の字面通りの意味も考え合わせて,「強大になる」(今回は未来時制なので「強大になるだろう」) という訳語が最適であると判断した。