聖母マリアへのアンティフォナ "Sub tuum praesidium" 対訳・逐語訳 (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ55)
Antiphonale Monasticum I (2005), pp. 479–480; 同II (2006), pp. 17–18; 同III (2007), pp. 491–492.
Antiphonale Monasticum (1934), p. 1258.
Liber Usualis, p. 1861.
今回扱うテキストは,Wikipediaによると現在記録が残っているものとしては最古の聖母マリアへの祈りだそうで,3世紀か4世紀のエジプトのパピルスにギリシャ語で記されているということである。「マリアは神を産んだ者 (神の母)」と公式に宣言したエフェソス公会議 (5世紀) 以前にこの「神を産んだ者」という称号が見られる例としても重要らしい。
2018年の「ロザリオの月」 (毎年10月) にあたり,教皇フランシスコがロザリオの最後に唱えることを勧めた2つの祈りのうちの一つでもある (もう一つは大天使聖ミカエルへの祈り)。
更新履歴
些細な変更は記録しない。
2024年12月21日
記事タイトルを改めた。「聖母マリアのアンティフォナ」→「聖母マリアへのアンティフォナ」。
訳語を少し改めた。「私たち」→「私ども」(逐語訳では「われわれ」)。
対訳の部と逐語訳の部とを統合した。
2022年2月7日
投稿
【教会の典礼における使用機会】
第2バチカン公会議後の典礼改革の中で,聖務日課の一つである終課 (寝る前の祈り,Completorium) の最後に歌われる「聖母マリア (へ) のアンティフォナ」の一つとしてこの "Sub tuum praesidium" が正式に取り入れられている。用いる季節についての定めはない (このアンティフォナに限らず,現行規則では復活節に "Regina caeli" を歌うということ以外は自由らしい。参考:Religion in Geschichte und Gegenwart [RGG] 第4版の "Marianische Antiphonen" の項 [執筆者:Franz Karl Praßl],オンライン版利用,2022年2月7日アクセス)。
公会議前の聖歌書 (1934年版Antiphonale MonasticumやLiber Usualis) を見ると,この歌は「種々の聖歌」「補遺」といった部に収録されており,典礼の中では決まった用途がなかったらしいことがうかがえる。
ただし,どの程度公式の典礼といってよいものなのか私にはよく分からないのだが,「聖母マリアの小聖務日課」というものがあり,ここでは終課のシメオンの讃歌 (Nunc dimittis) 用のアンティフォナとして "Sub tuum praesidium" が用いられてきたようである。この小聖務日課については私はよく知らないので,何か訂正・補足などあれば下のコメント欄・SNSのダイレクトメッセージなどでお書きいただければ幸いである。なおこちらのサイトの「心に響くラテン語聖務日課」のページ (まず "INDEX" をクリックするとリンクが現れる) に式文が掲載されている。また,こちらでは1832年に出版された小聖務日課書 (英訳つき) を閲覧することができる ("Sub tuum praesidium" が現れるのはp. 33)。
【テキストと全体訳】
Sub tuum praesidium confugimus, sancta Dei Genetrix; nostras deprecationes ne despicias in necessitatibus, sed a periculis cunctis libera nos semper, Virgo gloriosa et benedicta.
あなたの守護のもとに私どもは逃れます,神をお産みになった聖なる方よ。窮境において私どもの願いを軽んじることなく,あらゆる危険から私どもをいつも解放してください,栄光ある祝福されたおとめよ。
↑ 映っている楽譜と歌われている旋律とがところどころ異なっているが,楽譜はLiber Usualis,歌われているのはAntiphonale Monasticum (新旧どちらでも同じ) に載っている旋律である。
ラテン語学習の教材としてお使いになりたい方のため,古典ラテン語式の母音の長短も示しておく。このテキストは教会ラテン語なので,この通り発音されるべきだというわけではなく,あくまで学習用のものとお考えいただきたい。
Sub tuum praesidium cōnfugimus, sāncta Deī Genetrīx; nostrās dēprecātiōnēs nē dēspiciās in necessitātibus, sed ā perīculīs cunctīs līberā nōs semper, Virgō glōriōsa et benedicta.
【対訳・逐語訳】
Sub tuum praesidium confugimus, sancta Dei Genetrix;
あなたの守護のもとに私どもは逃れます,神をお産みになった聖なる方よ。
"sancta Dei Genetrix" を「神をお産みになった聖なる方よ」と訳した。直訳すれば「聖なる・神の・産んだ女よ」だが,「聖なる」が「神」ではなく「産んだ女」にかかることを明らかにする必要などのためこのようなことになった。
日本の正教会 (東方正教会。お茶の水の東京復活大聖堂=ニコライ堂など) には「生神女」という「神を産んだ女」を一語で表す言葉があり,これを用いるならば「聖なる生神女よ」で済むので,この正教会用語が広く知られてさえいればそうしたいところだった。
nostras deprecationes ne despicias in necessitatibus,
訳1:窮境において私どもの願いを軽んじないでください,
訳2:窮境における私どもの願いを軽んじないでください,
訳2は "in necessitatibus (窮境において/おける)" を "deprecationes (願いを)" にかかる形容詞句と捉えたもの。"ne despicias (軽んじないでください)" を飛び越えてかかることになるわけだが,ラテン語ではこのようなことも普通にある。そして,こう訳したほうが「誰の窮境なのか」がはっきりするのでよいとも思う (今回の場合普通に考えて「私ども」の窮境であることは明らかであるとはいえ, 「窮境において私たちの願いを軽んじることなく」という日本語を素直に読むと「軽んじる」人のほうが窮境にあるようにも,少なくとも私は感じる)。
といっても,今まで入祭唱を訳すなどしてきたわずかな経験から言うと,このように文中のほかの要素を飛び越えてかかるという現象は教会の聖歌のテキストではあまり見ない (全くないわけではないが) ように思うので,単純に直前の動詞 "despicias" にかけて (つまり副詞句と解釈し)「窮境において」とするのが無難かもしれないと思い (訳1),全体訳ではこちらを採用した。
sed a periculis cunctis libera nos semper, Virgo gloriosa et benedicta.
そうではなく,あらゆる危険から私どもをいつも解放してください,栄光ある祝福されたおとめよ。