奉納唱 "Iustus ut palma florebit" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ84)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 497; GRADUALE NOVUM II p. 201; OFFERTORIALE TRIPLEX pp. 150–151.
gregorien.info内のこの聖歌のページ
GRADUALE NOVUMは子音字としてのiをjで記すので,この奉納唱 (奉献唱) の冒頭は "Justus ut palma florebit" となっている。
独唱句 (現在は原則として歌われないので,本稿でも扱わない) は出版譜の中ではOFFERTORIALE TRIPLEXのみに載っているが,Anton Stingl jun. 氏が個人で作成なさった楽譜を氏のサイトからダウンロードすることができる (上記gregorien.info内のページにある "Offertoriale restitutum , Anton STINGL, jun." の横の三角をクリック)。
更新履歴
2023年6月16日
「棗椰子のように栄える」「レバノン杉のように伸びる」という比喩が何を表しているのかについて,アウグスティヌスとカッシオドルスが述べていることをまとめた (独立した部にした)。
この奉納唱と一致する詩篇テキストの例が誤っていたので修正した (「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部)。もとは「アンブロジウス詩篇書など」と書いていたが,改めてよく見たら語順が違ったのである。ただ,完全一致はしていなくても語順が異なる程度の違いであれば,実は本当にアンブロジウス詩篇書がもとになっている可能性もなくはないが (写本間の違いというのもあろうし)。
独唱句を歌う場合の個人的な提案を追記した (「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部)。→記事更新の数時間後,この追記部分に修正を加えた。
2023年6月9日 (日本時間10日)
投稿
【教会の典礼における使用機会】
調べつくしていないので,概略だけ記す。
AMSにまとめられている8~9世紀の聖歌書では,この奉納唱は使徒・福音書記者聖ヨハネの祝日 (12月27日) と洗礼者聖ヨハネの誕生の祝日 (6月24日) のところにのみ記されている。
その後どこかの時点で「教会博士」の称号を持つ聖人の祝日に共通して用いられる歌 (Commune) となり (少なくとも1962年版ミサ典書には載っている),さらに20世紀後半の典礼大改革で,教会博士以外の聖人のミサにも用途が拡大した (詳しくは上記gregorien.info内のページをごらんいただきたい)。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Iustus ut palma florebit: sicut cedrus, quae in Libano est, multiplicabitur. T. P. Alleluia.
義人は棗椰子のように栄えるであろう,レバノン杉のように伸びるであろう。(復活節には) ハレルヤ。
これは詩篇第91篇 (ヘブライ語聖書では第92篇) 第13節だが,テキストはローマ詩篇書にもVulgata=ガリア詩篇書にも一致しない (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。では意図的な改変が行われたのかというと,おそらくそうではない。ほかのラテン語詩篇テキストを見てみると一致するものがあるので (アンブロジウスによる詩篇第118 [119] 篇の註解における引用など),単にこの奉納唱がそちらに基づいているというだけのことだと思われる。
なお相違点は,"quae in Libano est (レバノンにある)" という関係詞節 (ややこしいが,これは後述の理由により上にはそのままは訳出していない) がローマ・ガリアの両詩篇書では "Libani (レバノンの)" の一語で済まされていることだけで,つまり内容に違いはないといってよい。
さまざまな聖人の祝日・記念日に用いられる奉納唱であり,その日が復活節中にくることもありうるため,その場合のための "Alleluia" も記されている (復活節にはとにかく何でも "alleluia" をつけて歌うことになっているのである)。"T. P." は "Tempore Paschali (復活節には)" の略。
なお,独唱句 (本稿では扱わない) は3節あるが,それぞれ同じ詩篇の第2,第3,第14節である。上述の通り,本稿で訳す奉納唱アンティフォナ (と聖歌書には書いてあるが,独唱句と合わせて歌うとなれば実際にはレスポンスムだということになる) は第13節であり,これに続いているのは3つめの節 (第14節) だということになる。1つめの節 (第2節) は,単に節番号が離れているというだけでなく,実際の言葉の上でもアンティフォナ (レスポンスム) にうまく続かない。もちろん,アンティフォナ (レスポンスム) とつながらなくても単体で意味を成すような言葉になっていれば全く問題ないのだが,そうではない (内容以前に,独立した文になっていない)。2つめの節 (第3節) も独立した文になっていないものの,こちらは言葉の上でアンティフォナ (レスポンスム) に続けられなくはない。しかし,本来別の文脈で出ているものをつなげてしまい (これはグレゴリオ聖歌では一再ならず行われていることではあるが),その結果,アンティフォナ (レスポンスム) の意味に本来ない限定をつけてしまうことになる。というわけで,個人的には,もし独唱句を歌うなら3つめの節のみ用いるのがよいと思う。
【比喩の意味するところ (アウグスティヌスとカッシオドルスによる)】
以下は,カッシオドルスのExpositio PsalmorumやアウグスティヌスのEnarrationes in Psalmosにおいて詩篇第91 (92) 篇第8節と第13節が扱われている部分をまとめたものである (両者は似たようなことを言っている)。
既述の通りこの奉納唱で歌われるのは詩篇第91 (92) 篇第13節だが,同じ詩篇の第8節には次のようにある。
ここで「草」は,短い間は青々としているがすぐ枯れるものということで,つまり悪人の繁栄は束の間,せいぜいこの世限りで,彼らが神の裁きに耐え得ず滅ぶ (神の光に耐え得ず干からびる) ことを表しているという。
それに対し,棗椰子は根や幹の下のほうこそ粗くいびつな外観を呈しているが,伸びてゆくと最後に甘い果実をつけ見事な葉を広げる。そのように,義人はこの世において苦難に満ちた生涯を送るが,最後に (特に天において) 最高の美しさをもって輝くのだ,という。
レバノン杉についてはアウグスティヌスもカッシオドルスもあまり多くは述べておらず (特にアウグスティヌス),次のように,結局棗椰子の比喩と一緒にして語るような形にしている。
【対訳】
Iustus ut palma florebit:
義人は棗椰子のように栄えるであろう。
別訳:(……) 花開くであろう。
このラテン語動詞floreo, florere (>florebit) の基本的な意味は「咲く,花開く」だが,たぶん棗椰子は特に花に見ごたえがあるというわけではなくて,むしろ葉を広げた姿や多くの実をつけることに見事さがあるのではないかと思う (よく知らないが)。つまり,私の持っているイメージが間違っていなければだが,もし「素晴らしく花開く」ことのたとえに用いるのであれば,棗椰子よりふさわしい植物がほかにいくらでもあったのではないか。それゆえ,派生的な意味「栄える」のほうを採るのがよいと考える。
sicut cedrus, quae in Libano est, multiplicabitur.
レバノンにあるレバノン杉のように彼は伸びるであろう。
「レバノン杉」と訳したのは "cedrus",「レバノンにある」と訳したのはそれにかかる関係詞節 "quae in Libano est" である。
「レバノンにある杉のように」と訳せればスマートになるところだが,レバノンスギはスギの仲間ではないためこうするしかなさそうである (「杉」という概念の捉え方次第では問題ないのかもしれないが)。そうはいっても「レバノンにあるレバノン杉」ではあまりに整わないので,全体訳では単に「レバノン杉」とした。
レバノン杉は40mほどの高さにもなるという。
【逐語訳】
iustus / justus 義人が (単数)
ut palma 棗椰子のように (ut:~のように,palma:棗椰子 [主格])
florebit 咲くであろう,花開くであろう;栄えるであろう (動詞floreo, florereの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)
sicut cedrus レバノン杉のように (sicut:~のように,cedrus:レバノン杉 [など,ヒマラヤスギ属の植物])
"cedrus" は男性名詞のような語尾だが女性名詞。
quae (関係代名詞,女性・単数・主格)
直前の "cedrus" を受ける。
in Libano レバノンに
est ある (動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
multiplicabitur 彼が大きくなる (大きくされる) であろう;彼が増える (増やされる) であろう (動詞multiplico, multiplicareの直説法・受動態・未来時制・3人称・単数の形)
このラテン語動詞自体を見るとまずは「増える」と訳したくなるが,「レバノン杉のように」であるから,「大きくなる (伸びる)」のほうが適切であろう。
「彼」= "iustus"。