讃歌 "Pange lingua gloriosi corporis mysterium" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ39)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 170-172; GRADUALE NOVUM I pp. 134-135;『カトリック聖歌集』pp. 311–313 (第521番。第1–4節) および pp. 338–339 (第561番。第5–6節).
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はじめに

 "Pange lingua" (パンジェ・リングヮ) という言葉で始まる現行典礼用ラテン語聖歌は2つあり,1つは "Pange lingua gloriosi corporis mysterium" という聖体讃歌,もう1つは "Pange lingua gloriosi praelium/proelium certaminis" という十字架讃歌である。後者 (6世紀に成立) のほうがはるかに古く,これをモデルとして前者 (13世紀に成立) が作られたといえる (参考:吉村恒編『宗教音楽対訳集成』2007年初版,p. 158)。今回扱うのは前者,聖体讃歌のほうである。ちなみに,"Pange lingua" という言葉で始まる讃歌はほかにも100ほどあるらしい (参考:ドイツ語版Wikipedia)。
 なお,聖体讃歌の "Pange lingua" は聖木曜日の典礼で,十字架讃歌の "Pange lingua" は聖金曜日の典礼で歌われるため,同じ出だしの異なる讃歌が連続する2日に聞かれることになる。

 今回扱う "Pange lingua gloriosi corporis mysterium" は,聖木曜日の「主の晩餐の夕べのミサ」の終わりに聖体が普段と違うところに移される (イエスがゲツセマネの園に向かうことを象徴) ときの行列に際して歌われるほか,キリストの聖体の祭日 (聖霊降臨祭の11日後の木曜日。日本ではその次の日曜日にずらして祝われる) の晩課 (だいたい17–18時ごろから行われる聖務日課) でも用いられる。祭日には晩課が前晩と当日の晩との2回あるが,両方で歌われる。
 また,終わりのほうの "Tantum ergo" (タントゥム・エルゴ) 以下は,教会暦関係なしに,聖体降福式 (聖体,すなわちパンの形で現存するキリストを祭壇上に顕示して礼拝するもの) の際にも歌われる。

 いつもと違ってテキストが長いので,全体を通してでなく節ごとに対訳と逐語訳を掲げる。節ごと,と書いたが,この聖歌のジャンルである讃歌 (Hymnus,複数形Hymni) というのは有節歌 (一つの旋律で1番,2番……の歌詞を歌ってゆくもの) なのである。あと,たいていのグレゴリオ聖歌のテキストが散文であるのに対し,これは韻文である。

 この「グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ」では,普段は聖歌のテキストをGRADUALE TRIPLEXから書き写しているのだが,今回は分かりやすさの観点からGRADUALE NOVUMに載っているものを採用する。相違点は大文字・小文字の使い分け,句読点,ある1語の綴り (第3節にある "coenae":GRADUALE TRIPLEXでは "cenae") であり (あと細かいことをいえば,最終節の "jubilatio" はG. T. では "iubilatio"),テキストの意味は同じである。

 なお,この讃歌の作者はトマス・アクィナス (1225–1274) であるとされるが,GRADUALE TRIPLEXでは作者名の表示の横に "(?)" がついているので,確かではないようである。

 以下,手元の辞書にある通りに母音の長短も示すが,中世ラテン語である上に韻文なので,本来この通り発音されるべきものとは考えがたい。単にラテン語学習のためのものとお考えいただきたい。
 

第1節

Pange lingua glōriōsī
corporis mystērium,
sanguinisque pretiōsī,
歌い讃えよ,舌よ,栄光に満ちた御体と価高き御血の神秘を,

quem in mundī pretium
frūctus ventris generōsī
Rēx effūdit gentium.
世界を買い戻す代金として,高貴な胎の果実が,すなわち諸々の民の王が注ぎ出した [御血の]。

  •   「高貴な胎」とは聖母マリアのことであり,その「果実」すなわち子とはイエス・キリストのことである。この「高貴な胎の果実」という言葉が「諸々の民の王」という言葉と同格で言い換えられている。

  •  この3行全体が,上の "sanguinis(que)" にかかる関係詞節である。

【逐語訳】
pange 歌い讃えよ (動詞pangō, pangereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
lingua 舌よ
glōriōsī corporis 栄光に満ちた御体の (glōriōsī:栄光に満ちた,corporis:体の)
mystērium 神秘を,秘跡を
sanguinisque pretiōsī また,価高き御血の (sanguinis:血の,-que:英 "and",pretiōsī:高価な  ※直前の "mysterium" にかかる ("glōriōsī corporis" と並列関係にある)。
quem
 (英:関係代名詞which。男性・単数・対格)
in mundī pretium 世界の (世界を買い戻す) 代金として (mundī:世界の,pretium:代金,身代金 [対格])
frūctus 果実が
ventris generōsī 高貴な胎の  ※直前の "frūctus" にかかる。
Rēx 王が
※ "frūctus" と "Rēx" とが同格であり,「王である果実が」「果実である王が」「果実が,すなわち王が」のいずれにも訳すことができる。
effūdit
注ぎ出した (動詞effundō, effundereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
gentium 諸国の民の,(神の民イスラエルの対概念としての) 異邦人の  ※直前の "effūdit" を飛び越えて "Rēx" にかかる。
 

第2節

Nōbīs datus, nōbīs nātus 
ex intāctā Virgine,
私たちに与えられ,汚れなきおとめから私たちのために生まれ,

  •  しばらく完了分詞 (完了能動分詞も完了受動分詞もある) による分詞構文が続く。主節は最終行にやっと出る。

et in mundō conversātus,
そして (この) 世に滞在し,

sparsō verbī sēmine,
御言葉の種をまいてから,
直訳:御言葉の種がまかれた後,

  •  これは独立奪格句 (絶対的奪格 ablativus absolutivus) というラテン語独特の構文で,意味上の主語は "sēmine",意味上の述語動詞は "sparsō" である,ということだけ考えればよいのだが,敢えて奪格の基本的な意味の一つ「~でもって」から出発して説明を試みるならば,次のようになろう (かえって混乱するという場合は無視していただきたい)。「まかれた (まかれ終わった) 御言葉の種でもって」→「まかれた (まかれ終わった) 御言葉の種というのを付帯状況として」→「御言葉の種がまかれた後」→ (まいたのは誰?) →「(彼が) 御言葉の種をまいてから」。

  •  意味上の述語動詞 "sparsō" が完了受動分詞なので,この独立奪格句は主節 (次の行にある) よりも前に起こったことを述べていることになるから,「御言葉の種がまかれた」という意味になる。

suī morās incolātūs mīrō clausit ōrdine.
御自分の滞在の期間を,彼はある驚嘆すべき制定をもって締めくくった。

  •  この第2節のすべての分詞構文や独立奪格句は,この一文にかかっている。分詞構文でも独立奪格句でも完了分詞が用いられていたので,この一文よりも時制としては前の扱いになる。

  •   「彼」は第1節に登場した「高貴な胎の果実=諸々の民の王」,すなわちイエス・キリストである。

  •   「驚嘆すべき制定をもって」と訳した "mīrō [...] ōrdine" は,これだけでは意味が分かりづらくいろいろに訳せるのだが,この讃歌全体のテーマが聖体であることから,また次の第3節で最後の晩餐のことが語られていることからも,聖体の秘跡の「制定」を指しているのだろうと思われる。

  •   「驚嘆すべき制定」の前の「ある」は「かの」でもよい。ラテン語には冠詞がないので,aなのかtheなのかは分からないのである。

【逐語訳】
nōbīs 私たちに
datus 与えられた (動詞dō, dareの完了受動分詞・男性・単数・主格の形)  ※男性・単数なのは,意味上の主語が「彼」(後に出る定動詞 "clausit" の主語) すなわちイエス・キリストだからである。
nōbīs 私たち (のため) に
nātus 生まれた (動詞nāscor, nāscīをもとにした完了受動分詞の顔をした完了能動分詞,男性・単数・主格)
ex intāctā Virgine 汚れなきおとめから (intāctā:触れられていない,損なわれていない,Virgine:処女,おとめ [奪格])
et (英:and)
in mundō (この) 世に (mundō:世界 [奪格])
conversātus 滞在した,歩んだ (動詞conversor, conversārīをもとにした完了受動分詞の顔をした完了能動分詞・男性・単数・主格の形)
sparsō まき散らされた後で (動詞spargō, spargereの完了受動分詞・中性・単数・奪格の形)  ※独立奪格句の中で意味上の述語動詞となっている。
verbī
御言葉の
sēmine 種が (奪格)  ※独立奪格句の中で意味上の主語となっている。
suī 自らの  ※次の "morās" を飛び越えて "incolātūs" にかかる。
morās 期間を
incolātūs 滞在の  ※前の "morās" にかかる。
mīrō 驚嘆すべき  ※次の "clausit" を飛び越えて "ōrdine" にかかる。
clausit 彼が閉じた,終えた (動詞claudō, claudereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)  ※目的語は3つ前の "morās"。
ōrdine 制定でもって (奪格)  ※いろいろな意味にとれる語だが,聖体の秘跡の制定を指していると思われることから「制定」と訳すことにする。
 

第3節

In suprēmae nocte coenae
recumbēns cum frātribus,

至高の正餐の夜に,兄弟たちとともに横たわって [食卓について],

  •  現在能動分詞による分詞構文で,主節は最終行まで出てこない。意味上の主語は引き続きイエス・キリストである。

  •  "coenae" は中世ラテン語での綴りで ("caenae" となることもある),もとは "cēnae" であり,GRADUALE TRIPLEXは後者を採用している。

  •   「至高の正餐」は,ユダヤ人 (イエスも弟子たちもユダヤ人だった) にとって一年で最も大切な食事である「過越の食事」を指す。最後の晩餐は過越の食事だった (ただしヨハネによる福音書ではその前の晩だったことになっている)。

  •   「兄弟たち」とは弟子たちのこと。

  •  "recumbēns" は「横たわって」という意味だが,ここでは食卓につくことを言っている。ユダヤ人は横たわって食事をとるのが正式だったのである。参考:銘形秀則牧師による過越の食事の解説

observātā lēge plēne
cibīs in lēgālibus,
定められた食事についての掟が完全に守られたのち,

  •  これも独立奪格句であり,意味上の主語は "lēge",意味上の述語動詞は "observātā" である。"observātā" が完了受動分詞であるため,主節 (次の2行) より前の時点のことが述べられていることになり,それゆえ「~のち」という訳にしてある。

  •  "cibīs in lēgālibus" は "in cibīs lēgālibus" と並び替えると分かりやすい。

  •  過越の食事には決まった式次第があるので,「定められた食事についての掟」という言葉はそれを指すと考えられる。

cibum turbae duodēnae
sē dat suīs manibus.
食事として,12人から成る群れ (十二使徒,十二弟子) に御自身を御自分の手で彼はお与えになる。

  •  "cibum" (食事を) と "sē" (自分自身を) とが同格 (対格) であり,ここでは「食事として,御自身を」と解釈するのがよいだろう。英語ならば「~として」というときには前置詞asを用いるが,ラテン語ではこのように何もつけずにそれを表せるのである (しかしそれゆえ,文脈で判断するしかない)。

  •   「食事として」「御自身を」与える,というのはどういうことかというと,このとき「彼」すなわちイエス・キリストが弟子たちに渡したパンは彼の「体 (肉)」,ぶどう酒は彼の「血」であると宣言されているので,それを弟子たちに与えるということはつまり「御自身を」与えるということになるわけである。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。[……]」

マタイによる福音書第26章第26–28節 (新共同訳)

【逐語訳】
in ~に  ※2つ後の "nocte" につながる。
suprēmae 至高の  ※次の "nocte" を飛び越えてcoenae/cēnaeにかかる。
nocte 夜 (奪格)
coenae/cēnae 正餐の  ※前の "nocte" にかかる。
recumbēns 食卓に (横たわって) ついて (動詞recumbō, recumbereの現在能動分詞・男性・単数・主格の形)  ※男性・単数なのは,意味上の主語が「彼」(後に出る本動詞 "dat" の主語) すなわちイエス・キリストだからである。
cum frātribus 兄弟たちとともに (cum:英 "with",frātribus:兄弟たち [奪格])
observātā 遵守された後で,注意が払われた後で (動詞observō, observāreの完了受動分詞・女性・単数・奪格の形)  ※独立奪格句の中で意味上の述語動詞となっている。
lēge 掟が (奪格)  ※独立奪格句の中で意味上の主語となっている。
plēne 完全に (副詞)
cibīs in lēgālibus 定められた食事についての (cibīs:食事 [複数・奪格],in:~について,lēgālibus:掟に従った,掟が要求する [形容詞])  ※この句全体が2つ上の "lēge" を修飾する。
cibum 食事を (単数)
turbae duodēnae 12人から成る群れに,十二使徒に,十二弟子に (turbae:群れに,duodēnae:12人から成る)
自分自身を  ※2つ前の "cibum" と同格。
dat 彼が与える (動詞dō, dareの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
suīs manibus 自分の手で (suīs:自分の,manibus:手で [複数・奪格])
 

第4節

Verbum carō, pānem vērum
verbō carnem efficit:
肉 (体) である (肉 [体] をまとっている) 御言葉は,正真正銘の (純然たる) パンを言葉によって肉 (体) となす。

  •  聖変化 (パンがキリストの体に,ぶどう酒がキリストの血に本当に変化するという,カトリックや正教会など伝統的な教会の教義) のことが言われている。

  •  "pānem vērum" は,ヨハネによる福音書第6章第55節にある「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」だというイエスの言葉を連想させるため,「まことのパン」と訳したくなる。しかし,この聖歌のこの部分では "pānem vērum" を "carnem" ([イエス自身の] 肉体) に変化させる,と言われているので,この解釈は適当でない。福音書のほうで「まことの食べ物」=「わたしの肉」と言われている以上,"pānem vērum" が「まことのパン」なのであれば,それはすでにイエス・キリストの体だということになり,それをさらに変化させる意味がなくなるからである。それゆえ,「正真正銘のパン」「純然たるパン」つまり「パン以外の何物でもないもの」のことだと解釈する。

fitque sanguis Chrīstī merum,
同様に,純粋なワインはキリストの血になる。

et sī sēnsus dēficit,
感覚が (理解力が) 無力になるとき,

  •  聖変化という,考えたり見たりして把握できる範囲を超えているようなことについては,ということ。

ad firmandum/fīrmandum cor sincērum
曇りのない心を堅固にするためには

  •  前の文にかけてもよいし後の文にかけてもよいと思われる。どちらにせよ内容は同じことになる。

  •   「曇りのない」と訳した "sincērum" は「純粋な,混ぜもののない,率直な」といった意味の語であるが,この文脈で「混ぜもの」があるとしたら何かと考えると「疑い」ではないかと思うので,疑わない心,という含みをもたせようとこのような訳語を採用した。

  •  "firmandum" の "i" は,Sleumerの教会ラテン語辞典では長母音,STOWASSER (学校用の一般的なラテン語辞典) では短母音になっている。

sōla fidēs sufficit.
信仰だけで十分である。

  •  "Sola fide (信仰のみで)" といえばルターの宗教改革のスローガンの一つだが,聖体讃歌といういかにもカトリック的な聖歌にその言葉が現れているのは少し面白いといえば面白い。「信仰」という言葉で言われている内容はもちろん異なるが。

【逐語訳】
Verbum 御言葉が
carō 肉 (肉体) が
pānem vērum 正真正銘のパンを (pānem:パンを,vērum:本当の)  ※「まことのパンを」と敢えて訳さない理由については上の対訳のところを参照。
verbō 言葉によって (奪格)
carnem 肉 (肉体) を 
efficit つくる  ※同格 (対格) の2要素 "pānem vērum" と "carnem" を目的語とし,「正真正銘のパンを肉 (肉体) とする」つまり「純然たるパンを肉 (肉体) に変化させる」ということを表す。
fitque そして (また,同様に),なる (fit:動詞fīō, fierīの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形,-que:英 "and")
sanguis Chrīstī キリストの血 (sanguis:血 [主格],Chrīstī:キリストの)
merum 純粋なワインが
et (英:and)
 (英:if)
sēnsus 感覚が,印象が,悟性が,理解が,考えが
dēficit 無力になる (動詞dēficiō, dēficereの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
ad firmandum/fīrmandum 堅固にするために,強めるために (firmandum:動詞firmō, firmāreをもとにした動形容詞または動名詞,中性・単数・対格の形)  ※次の "cor" にかかる動形容詞ともとれるし,同じ "cor" を目的語とする動名詞ともとれるが,類例から考えるとおそらく動形容詞だと思われる。意味はどちらでも同じであり,目的を示す形である。
cor sincērum 曇りのない心を (cor:心を,sincērum:純粋な,混ぜもののない,率直な,正直な)
sōla fidēs 信仰だけで (主格) (sōla:~だけで,fidēs:信仰 [主格])
sufficit 十分である (動詞sufficiō, sufficereの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
 

第5節

Tantum ergō Sacrāmentum
venerēmur cernuī :
そういうわけで,かくも素晴らしい秘跡を,頭を垂れて礼拝しようではないか。

  •   「かくも素晴らしい秘跡」=聖体。分かりづらい感覚 (あるいは受け入れがたい感覚) かもしれないが,カトリックだと聖体=イエス・キリスト自身なので,聖体を「礼拝」するということがありうるわけである。

et antīquum documentum
novō cēdat rītuī:
古い教えは/旧約は,新しい典礼に取って代わられるがよい。
直訳:そして,古い教えは/旧約は新しい典礼に譲るがよい。

praestet fidēs supplēmentum
sēnsuum dēfectuī.
信仰が感覚 (理解力,考えetc.) の足りないところを補わんことを。
直訳:信仰が感覚の足りないところに補完を与えんことを。

  •   「サプリメント」の語源である "supplēmentum" という語が現れている。「感覚 (理解力,考えetc.)」だけだと栄養不足 (認識不足) になるので「信仰」というサプリメントで補いましょう,という感じである。

  •  ともかく,言っていることは第4節の終わりと同じで,聖体の秘跡というものを受け入れるには信仰をもってするしかないということである。

【逐語訳】
tantum これほどの (これほどに素晴らしい)  ※次の "ergō" を飛び越えて "Sacrāmentum" にかかる。
ergō それゆえ,そういうわけで
Sacrāmentum 秘跡を
venerēmur 礼拝しようではないか (動詞veneror, venerārīの接続法・受動態の顔をした能動態・現在時制・1人称・複数の形)
cernuī 頭を垂れる者として (名詞化した形容詞,男性・複数・主格)  ※この文の定動詞 "venerēmur" に隠れている主語「私たち」といわば同格。なお男性形なのは男性限定の話をしているからではなくて,ラテン語では特に性を限定しないときには男性形を用いることになっているというだけのことである。
et (英:and)
antīquum documentum 古い教えが,旧約が (antīquum:古い,documentum:教えが,証書が,範例が)  ※「旧約」という訳はMittellateinisches Glossarの "documentum" の項による。
novō 新しい (次の "cēdat" を飛び越えて "rītuī" にかかる)
cēdat 道を譲るべし (動詞cēdō, cēdereの接続法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
rītuī 典礼に,儀式に
praestet 与えるべし (動詞praestō, praestāreの接続法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
fidēs 信仰が
supplēmentum 補完を,補強を
sēnsuum 感覚の,印象の,理解力の,考えの (複数形)
dēfectuī 不完全さに,弱さに,足りないところに,誤りに

第6節

Genitōrī, Genitōque
laus et jūbilātiō,
salūs, honor, virtūs quoque
sit et benedictiō:
生んだ方 (父なる神) にも生まれた方 (子なる神) にも,讃美と歓呼が,それに表敬,栄誉,力も,また祝福もありますように。
別訳 (こちらのほうがよさそう):讃美と歓呼が,それに表敬,栄誉,力も,また祝福も,生んだ方 (父なる神) および生まれた方 (子なる神) のものでありますように。

  •   「神祝福する」というのは日本語では違和感があるため,こういうときの「祝福」は「感謝」「讃美」などと言い換えられることが多いが (ちなみにドイツ語でもそうである),本来はあくまで「祝福」である。

  •  構文的なことをいうと,ここでは「所有の与格」が用いられているということもでき,それを強調すると別訳のようになる。「讃美」「歓呼」などはともかく,「力」という言葉が入っているので,こちらのほうがよい日本語になっていると思う。「~に讃美あれ」「~に歓呼せよ」などとは言えるが,「~に力あれ」と言うのは変だ (と少なくとも私は感じる) ということ。

prōcēdentī ab utrōque
compār sit laudātiō.
両者から発出する方にも,同じ讃美が捧げられますように。

  •   「両者」とは父なる神と子なる神のことであり,その両者から「発出する方」とは聖霊のことである。

  •  これも「所有の与格」構文とみることが可能である。

Amen.
アーメン。

【逐語訳】
Genitōrī 生んだ方に,父 (御父,父なる神) に
Genitōque
および生まれた方に,息子 (御子,子なる神) に (Genitō:生まれた者に,息子に,-que:英 "and")
laus
賞讃が,栄誉が
et (英:and)
jūbilātiō/iūbilātiō 歓呼が,賞讃が  ※「賞讃」という訳はMittellateinisches Glossarによる。
salūs 挨拶が,健康が,救いが
honor 名誉が,尊敬が,讃歌が,飾りが
virtūs 力が
quoque ~も (前の要素を受ける)
sit あれかし,あるように (英語でいうbe動詞sum, esseの接続法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
et (英:and)
benedictiō 祝福が,賞讃が
prōcēdentī ab utrōque 両者ともから発出する者に (prōcēdentī:発出する者に [動詞prōcēdō, prōcēdereをもとにした現在能動分詞,男性・単数・与格。ここでは名詞的に用いられている],ab:~から,utrōque:両者とも [奪格。主格はuterque])
compār 同じ (形容詞)  ※次の "sit" を飛び越えて "laudātiō" にかかる。
sit あれかし,あるように (英語でいうbe動詞sum, esseの接続法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
laudātiō 賞讃が,讃辞が 
amen
アーメン

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