入祭唱 "Os iusti meditabitur sapientiam" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ53)
今回は訳よりも余談が重要である。特にグレゴリオ聖歌全般の成立背景にご興味のある方は,そこだけでも是非お読みいただきたい (【対訳】の第1文のところにある)。
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 494; GRADUALE NOVUM I p. 395.
gregorien.info内のこの聖歌のページ ←本稿投稿時点では,アンティフォナの最後の一文 "lex Dei eius in corde ipsius" が抜けている。
GRADUALE NOVUMでは子音字としてのiをjと記すため,この入祭唱の冒頭は "Os justi meditabitur sapientiam" と綴られる。
更新履歴
些細な修正は記録しない。
2022年1月5日
ソロモン王の話との関連から "iudicium" の訳を変更した。詳しくは「対訳」の部の当該箇所をお読みいただきたい。
2022年1月4日 (日本時間5日)
投稿
【教会の典礼における使用機会】
さまざまな聖人,特に「教会博士」,教育者,修道院長といった属性を持つ聖人の記念日に用いられる入祭唱であり,使用機会はすべての入祭唱の中で最も多い (どれほど多いかご興味のある方は,こちらやこちらの表でご確認いただきたい)。といっても主日 (日曜日) に用いられることはないので,実際に耳にする機会はあまりないだろうが。各聖人の記念日の式文を見てみると,実際にこの入祭唱が指定されているのは男性の聖人の記念日においてのみである。
なお,教会博士・教育者・修道院長いずれの属性にも当てはまらないが,昔も今も使徒・福音記者聖マタイの祝日 (9月21日) に歌われる入祭唱でもある。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Os iusti meditabitur sapientiam, et lingua eius loquetur iudicium: lex Dei eius in corde ipsius. T. P. Alleluia, alleluia.
Ps. Noli aemulari in malignantibus: neque zelaveris facientes iniquitatem.
【アンティフォナ】義人の口は知恵を繰り返しつぶやき覚えこむであろう,彼の舌は正しい判決を語るであろう。彼の神の律法が彼の心にあるのだ。(復活節には) ハレルヤ,ハレルヤ。
【詩篇唱】悪人どものゆえに競争心を燃やすな。不正を行う者どもを妬むな。
アンティフォナの出典は詩篇第36篇 (ヘブライ語聖書では第37篇) 第30–31a節であり,詩篇唱で歌われるのも同じ詩篇である (ここに掲げられているのは第1節)。いずれのテキストも,Vulgata=ガリア詩篇書のそれと完全に一致している。アンティフォナについてはローマ詩篇書とも完全に一致している。(「Vulgata=ガリア詩篇書」「ローマ詩篇書」とは何であるかについてはこちら。)
ラテン語学習の教材としてお使いになりたい方のため,古典ラテン語式の母音の長短も示しておく。このテキストは教会ラテン語なので,この通り発音されるべきだというわけではなく,あくまで学習用のものとお考えいただきたい。
Ōs iūstī meditābitur sapientiam, et lingua ēius loquētur iūdicium: lēx Deī ēius in corde ipsius/ipsīus. T. P. Alleluia, alleluia.
Ps. Nōlī aemulārī in malīgnantibus: neque zēlāveris facientēs inīquitātem.
【対訳】
【アンティフォナ】
Os iusti meditabitur sapientiam,
義人の口は知恵を繰り返しつぶやき覚えこむであろう,
別訳1 (直訳):義人の口は知恵を繰り返し練習する (練習して覚えこむ) であろう,
別訳2 (もう一つの直訳,おそらく一般的な訳):義人の口は知恵を瞑想するであろう,
ここに現れる動詞meditor, meditari (>meditabitur) は英語の "meditation" の語源であり,そしてそこから推測できる通り,ラテン語の辞書でこの語を引くとまず「沈思する」「深く考える」という意味が載っている。しかし辞書の続きを見てゆくと「(何かに向けて) 準備する」「繰り返し練習して覚えこむ」とある。単に沈思するのではなく練習するとなると,楽器の練習やスポーツの練習のことを考えていただければお分かりのように,それは肉体の動きを伴うことになる。そして,ここでは主語が「心」や「頭」などではなく「口」という,ただ考えるのではなく実際に動いて言葉を音声として発する器官であることからして,この「繰り返し練習して覚えこむ」という意味にとるのが最適であろう。
では「口」は「知恵」をどのようにして「繰り返し練習する」のかというと,もちろん知恵の言葉を繰り返し声に出すことによってだろうと考えられる。そして,実はもとのヘブライ語がこれをよく裏付けてくれる。ヘブライ語原典で "meditabitur" に対応する語はיֶהְגֶּה (語根:הגה ハーガー) で,この語の基本的な意味は「唸る,つぶやく (はっきりしない声で何か言う), 声に出す」といったものなのである。
これに関連して,グレゴリオ聖歌に関心のある者としてはたいへん興味深い話がある。それは一言でいうと,まさに以上のような意味での「知恵 (神の言葉) の瞑想/練習」がグレゴリオ聖歌の成立に深く関わっているということである。
まず,古代や中世における読書というのは主として音読であり,それは修道院における「聖なる読書 (聖書や教父の著作を読んで自分を鍛えること)」においてもそうであった。まさしく「口で」神の言葉をmeditari (瞑想/練習) していたのである。
さて,グレゴリオ聖歌は,ローマで歌われていた聖歌 (古ローマ聖歌) を8世紀のフランク王国の修道者たちが口伝えで10年かけて学び,それがフランク王国の地で変容してできたものだとされる。ゴーデハルト・ヨッピヒGodehard Joppichはこれについて,「修道者たちが大量の聖歌を楽譜もなしに学び取ったというのはもちろん驚嘆に値するが,それより,そんなにも苦労してせっかく覚えた一連の聖歌を彼らはいったいなぜ変容させたのかということこそが一番の問題である」とし,その上で上記のような当時の修道院での「読書」生活について述べている。このような「読書」生活により,フランク王国の修道者たちには聖書が既に身体レベルで染み込んでいた。それも,音読するわけであるから,単に文字としてではなく,彼らなりの区切りや抑揚を伴った音声の形で彼らの体に刻み込まれていた (そして区切りや抑揚には当然,精神が言葉に読み取った意味,つまり解釈が反映される)。そこに古ローマ聖歌が来たが,古ローマ聖歌の歌う神の言葉は,彼らの身体に染みついているものとは異なる響きがした。しかし,彼らの身体に染み込んでいる神の言葉 (響き方を含む) は,彼らにとってあまりにも真実であり,あまりにも彼ら自身の一部であった。だから聖歌のほうが変容しなければならなかったのだ,とヨッピヒは説明している (参考:Joppich)。
というわけで,この説明が正しいとすればだが,まさに "Os iusti meditabitur sapientiam" を地で行く生活こそがグレゴリオ聖歌の最終的な形をつくったことになる。その意味で,もしグレゴリオ聖歌そのもののテーマソングというものを決めるとしたら,私は迷わずこの入祭唱 (あるいはだいたい同じテキストをもつ昇階唱もあるのでまあそちらでもよいが) を指定したいと思う。
et lingua eius loquetur iudicium:
そして,彼 (=義人) の舌は正しい判決を語る (下す) であろう。
別訳:(……) 正しい裁きを語る (行う) であろう。
"iudicium" には「判決」「裁き」「法」「正しいこと」といった意味があるが,この文が前の文の言いかえである (連続する2つの文で同じようなことを言うというのは,旧約聖書の詩文において非常によくみられる手法である) ことを考慮すると,この語は "sapientiam (知恵を)" の言いかえとして現れていると考えられる。すると思い出されるのは,若いころのソロモン王の話である。
このように,「知恵に満ちた聡明な心」は,ここでは正しい統治・正しい裁きをする能力と同義である。ちなみに,ソロモンが早速その「知恵」を発揮した有名な話 (一人の子どもを実子だと互いに主張して争う2人の女の間を見事に裁いた話) がこのすぐ後 (第16節以下) に記されており,その最後には《王が裁いたこの訴えの話を聞いて,イスラエルの人々は皆,王を畏れ敬うようになった。裁きを行う神の知恵を王の内に見たからである。》(同章第28節) とあり,やはり「裁き」と「知恵」とが関連づけられている。
このように見てくると,この "iudicium" は単に「裁き」「判決」と訳すより「正しい裁き」「正しい判決」とするのが適切であると考えられるため,実際そのようにした。
lex Dei eius in corde ipsius.
彼の神の律法が彼の心にある。
"ipse" (>ipsius) は本来「~自身」(英:himself) という意味の語だが,古代末期や中世のラテン語では単なる代名詞の代わりとしても用いられるので,ここでも単に「彼」と訳した。
T. P. Alleluia, alleluia.
(復活節には) ハレルヤ,ハレルヤ。
前述の通り,この入祭唱はさまざまな聖人の祝日/記念日に用いられるので,あるときは四旬節に,あるときは復活節に,またあるときは何でもない季節 (「年間」) にというふうに,典礼暦上のさまざまな季節に歌われることになる。その中で,復活節という季節は何でもかんでも「ハレルヤ」をつけて歌う季節なので,この入祭唱も復活節中に歌うことになった場合はそうするようにとの指示である。"T. P." は "Tempore Paschali" の略。
【詩篇唱】
Noli aemulari in malignantibus:
悪人どものゆえに競争心を燃やすな。
悪人たちは栄えているのに,自分は神に従う生き方をしてもうまくゆかないように思えても,気にせずあくまで神の道を行け,ということ。次の節には「彼ら (=悪人たち) は草のように瞬く間に枯れ / 緑の若草のようにしおれる」(聖書協会共同訳) とある。
neque zelaveris facientes iniquitatem.
不正を行う者どもを妬むな。
直前の文の言いかえ。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
ōs 口が
iūstī 義人の (男性・単数形)
直前の "os" にかかる。
meditābitur 思いめぐらすであろう,瞑想するであろう,繰り返し練習して覚えこむであろう (動詞meditor, meditārīの直説法・受動態の顔をした能動態・未来時制・3人称・単数の形)
主語は2つ前の "os",目的語は直後の "sapientiam"。
sapientiam 知恵を
et (英:and)
lingua 舌が
ēius 彼の
直前の "lingua" にかかる。
loquētur 語るであろう (動詞loquor, loquīの直説法・受動態の顔をした能動態・未来時制・3人称・単数の形)
主語は2つ前の "lingua",目的語は直後の "iudicium"。
iūdicium 判決を,裁きを,法を,正しいことを,洞察を
lēx 律法が
Deī 神の
直前の "lex" にかかる。
ēius 彼の
直前の "Dei" にかかる。
in (英:in)
corde 心 (奪格)
ipsius/ipsīus 彼の,彼自身の
2つめのiは長母音のことも短母音のこともある。強勢の位置もそれによって変わり (「最後から2番目の音節が長ければそこにアクセント,そうでなければその前にアクセント」というルールがあるため),GRADUALE ROMANUM (1974) / TRIPLEXではアクセント記号が第1音節に,GRADUALE NOVUMでは第2音節にある。
alleluia ハレルヤ
【詩篇唱】
nōlī ~してはならない,~するな (命令法で禁止の助動詞として用いられる動詞nōlō, nōlleの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
aemulārī 競争心に燃える,嫉妬する,怒る (動詞aemulor, aemulārīの不定法・受動態の顔をした能動態・現在時制の形)
in ~のゆえに
malīgnantibus 悪人たち (奪格)
neque (英:nor。否定詞nēと接続詞-que [英:and] との組み合わせ)
zēlāveris 熱心に追求する,嫉妬する (動詞zēlō, zēlāreの接続法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)
接続法完了時制は,接続法現在時制同様に命令を表すことがある (つまり,完了時制といっても過去のことを言っているわけではない)。ここでは否定詞 (直前の "neque") があるので禁止を表し,「嫉妬するな」。
facientēs ~を行う者たちを (動詞faciō, facereをもとにした現在能動分詞,男性・複数・対格)
inīquitātem 曲がったことを,不正を,罪を
直前の "facientes" の目的語。