入祭唱 "Exaudi, Domine [...] tibi dixit" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ78)
Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, p. 241 (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じだが,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため後者のみ記す); Graduale Novum I, pp. 213–214.
gregorien.info内のこの聖歌のページ
"Exaudi, Domine" という言葉で始まる入祭唱は2つあり,この2語だけでなく最初の8語が共通である。それゆえ,区別のためにはもっと後の語句を示す必要があるので,今回の記事タイトルはこのようなことになっている。
更新履歴
些細な変更は記録しない。
2024年11月6日 (日本時間7日)
対訳の部と逐語訳の部とを統合した。
2023年4月6日
投稿
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版Ordo Cantus Missae (Graduale Triplex/Novumはだいたいこれに従っている) では,今回の入祭唱は次の諸機会に割り当てられている。
復活節第7主日 ※主の昇天の祭日 (本来は直前の木曜日) をこの日に移して祝う場合は,代わりに翌日の月曜日 (日本はこれに該当する)
「他の儀式を伴うミサ (Missae Rituales)」のうち,おとめの奉献や修道者の誓願が行われるミサ (復活節中に行う場合) (ほかの選択肢あり)
葬儀や死者記念ミサ (復活節中に行う場合) (ほかの選択肢あり) ※Graduale Triplex/Novumでは,この機会のための入祭唱としては指定されていない。
2002年版Missale Romanum (ローマ・ミサ典礼書) では,今回の入祭唱が割り当てられているのは復活節第7主日のみで,この日に主の昇天の祭日を移して祝う場合も,月曜にこの入祭唱を用いるようにとの指示は見当たらない。おとめの奉献や修道者の誓願,葬儀や死者の記念ミサのための入祭唱としても指定されていない。つまり,このミサ典書に則ってミサを行う限り,日本での使用機会は一切ないということになる。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
改革後と同じく,この入祭唱は復活節第7主日 (ただし呼び方は「主の昇天後の主日」,典礼書の年代によっては「主の昇天の八日間中の主日」) に置かれている。
【復活節第7主日というタイミングについて】
前述の通り,日本などでは昇天祭を復活節第7主日にあたる日に移して祝う。これだと,日曜に昇天を祝ってその次の日曜に教会に行ったらもう聖霊降臨祭になっていることになる。すると意識されづらいのが,昇天と聖霊降臨との間には独特な性格を持つひとつの時期があるということである。すなわち,イエス・キリストは既に昇天し,聖霊はまだ降っていない,いわば弟子たちだけで取り残されている時期である。
心細い状況であるわけだが,イエスはこのときのためにあらかじめ次のような約束を与えている。時は受難直前の晩である。
ここで「もうひとりの弁護者」「真理の霊」と呼ばれているのが聖霊である。
そして,復活後のイエスに
と言われた弟子たちは,それに従い,彼の昇天を見送るとエルサレムに戻り,ひたすら祈って待った (使徒行伝第1章第13–14節参照)。
この聖霊を待ち望む時期,聖霊降臨へのアドヴェントともいうべき時期に (本来の) 復活節第7主日はある。今回の入祭唱は,このような背景を念頭に置いて理解すべきものである。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Exaudi, Domine, vocem meam, qua clamavi ad te, alleluia: tibi dixit cor meum, quaesivi vultum tuum, vultum tuum Domine requiram: ne avertas faciem tuam a me, alleluia, alleluia.
Ps. Dominus illuminatio mea, et salus mea: quem timebo?
【アンティフォナ】しっかりとお聴きください,主よ,私の声を。その声をもって私はあなたに向かい叫んだのです。ハレルヤ。あなたに私の心は言いました, 「私は御顔を尋ね求めました」と。御顔を,主よ,私は探し求めましょう。御顔を私からそむけないでください。ハレルヤ,ハレルヤ。
【詩篇唱】主が私の照らし,私の救いなのだ。私は誰を恐れることがあろう。
アンティフォナに用いられているのは詩篇第26篇 (ヘブライ語聖書では第27篇) 第7節前半,第8節全体,第9節のはじめであり,テキストはローマ詩篇書に一致している。"tibi dixit" 以下は,復活節特有の "alleluia" の付加を除けば,四旬節第2主日など (改革前の典礼では四旬節第2主日の次の火曜日) の入祭唱 "Tibi dixit" と全く同じ。
詩篇唱にとられているのも同じ詩篇であり,ここに掲げられているのはその第1節の一部である。テキストはローマ詩篇書にもVulgata=ガリア詩篇書にもほぼ一致している (異なるのは両詩篇書において "illuminatio" が "inluminatio" となっていることだけで,これは音便の問題にすぎない)。この詩篇唱も,上記の入祭唱 "Tibi dixit" と共通のものである。
(「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら。)
【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】
Exaudi, Domine, vocem meam, qua clamavi ad te, alleluia:
しっかりとお聴きください,主よ,私の声を。その声をもって私はあなたに向かって叫んだのです。ハレルヤ。
直訳:しっかりとお聴きください,主よ,それをもって私があなたに向かって叫んだところの私の声を,ハレルヤ。
別訳:聞き入れてください,(……)
"qua clamavi ad te" は関係詞節であり,関係代名詞 "qua" が受けているのは "vocem meam (私の声を)" である。この "qua" は奪格をとっており,今回の場合,英語でいうところの "with which" (前置詞のついた関係代名詞) である。
「ハレルヤ」と叫んだ,ということではない。この「ハレルヤ (alleluia)」は,復活節の聖歌ならいつもついてくる (途中または末尾に付け加えられる) 要素であり,テキストの解釈にあたっては除いて考えるのがよい。
tibi dixit cor meum,
あなたに私の心は言いました,
quaesivi vultum tuum,
「私はあなたの顔を尋ね求めました」と。
原文には何の符号もついていないが,この文は「私の心」が「言」った内容であると考えられるので,カギ括弧を補っている。どこまでを「言」った内容と見るかは解釈次第であり,つまりこれより後の文をもカギ括弧に入れることも可能である。
この文と次の文に「あなた (=主) の顔を尋ね求める/探し求める」という要素があるが,これは今回の入祭唱の使用機会に関連づけて考えたい。「教会の典礼における使用機会」の部の「復活節第7主日というタイミングについて」の項に書いた通り,この入祭唱は,イエスが去り聖霊はまだ来ていない,つまり神が近くに感じられない時期に歌われるのである。神の顔を尋ね求めるとは神の現存を尋ね求めることであり,聖霊降臨を待って一心に祈っていた弟子たちのことをここでは考えたい。
vultum tuum Domine requiram:
あなたの顔を,主よ,私は探し求めましょう。
前の文にある動詞quaero, quaerere (>quaesivi) の意味とここの動詞requiro, requirere (>requiram) の意味とは,手元の辞書を見る限り,かなり重なるようである。
とりあえず違う訳語をあてようと思ってこのように「尋ね求める」「探し求める」と訳し分けたが,quaero, quaerereにも「探す」という意味があるし,requiro, requirereにも「尋ねる」という意味があるので,本当にとりあえずである。
ne avertas faciem tuam a me, alleluia, alleluia.
あなたの顔を私からそむけないでください,ハレルヤ,ハレルヤ。
"facies" (>faciem) を手元の辞書で引くとまず「姿,形,外見」という意味の訳語が載っており,その後にやっと「顔」と書いてあるのだが,ここでは文脈上「顔」という意味にとるのがよいだろう。つまり "vultus" (>vultum) と同じということになるが,実際,このラテン語詩篇のもとである七十人訳ギリシャ語聖書においては一貫して同じ単語 (πρόσωπον) が用いられている。
【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】
Dominus illuminatio mea, et salus mea:
訳1:主が私の照らし (照明),私の救いなのだ。
訳2:主は私の照らし,私の救い。
英語でいうbe動詞が省略されている (ラテン語にはよくある)。
"salus" を手元の辞書で引くとまず載っているのは「健康」という意味であるが, 「救い」というのも出ている。七十人訳ギリシャ語聖書で「救う者 (σωτήρ)」となっていることからも,ここは「救い」ととるべきだろう。
"illuminatio" は「光」と訳してもよいようだが,「光」という意味の語としてはより一般的と思われる "lux" や "lumen" があること,"illuminatio" は「照らす,明るくする」を意味する動詞illumino, illuminareからきている語であることから,むしろ「照らし」「照明」と訳したい。
素直に訳すと訳2のようになるだろうし,私も初めは実際こうしていた。
しかし,次の文「私は誰を恐れることがあろうか」とのつながりを考えると,この文は「(ほかならぬ) 主が私の照らし・救いなのだ (これ以上強力な助けはない)」ということを言っていると解釈するのが最も分かりやすいと思われる。この解釈を採るならば,この文の強調点は「主が (Dominus)」にあるということになる。訳2ではそれが表せないのである。といっても, 「主は (私の敵や妨げではなく) 私の照らし・救いなのだ」と読み, 「私の照らし,私の救い (illuminatio mea, et salus mea)」という部分に強調点を置いても,次の文に問題なくつながりはする。この解釈を採るのであれば訳2でよいことになる。私はやはり,上の解釈のほうが説得力が強い,少なくとも分かりやすいと感じるが。
quem timebo?
私は誰を恐れることがあろうか。
修辞疑問文 (「私は誰を恐れることがあろうか,いや誰をも恐れることはない」)。
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