入祭唱 "Salus populi ego sum" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ42)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 339; GRADUALE NOVUM I p. 328.
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更新履歴
2023年9月22日 (日本時間23日)
2002年版ミサ典書における使用機会についての記述を加えた。
AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書で使用機会がどうなっているかについての記述を詳しくした。
その他細かい改善を行なった。
2020年3月19日
投稿
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版Ordo Cantus Missae (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,四旬節第3週の木曜日と年間第25週に割り当てられている。また,教会暦関係なしの「種々の機会のミサ」のうち「何であれ窮状にあるとき」のミサで用いることができる入祭唱の一つともなっている。
2002年版ミサ典書では,上記すべてに加え,「和解のため (pro reconciliatione)」のミサ (これも「種々の機会のミサ」の一つ) でも用いられることになっている。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版ミサ典書では,四旬節第3週の木曜日,聖霊降臨後第19主日,「何であれ窮状にあるとき」の随意ミサに割り当てられている。
AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書でも,四旬節第3週の木曜日と聖霊降臨後第19主日とに割り当てられている。こちらでは,興味深いことに,両者で異なる詩篇が詩篇唱に用いられている (後述)。
なお2つの使用機会のうち聖霊降臨後第19主日についてだが,厳密には,Rheinau (ライナウ) の聖歌書のみなぜか「第20主日」と記している (聖霊降臨後第17 [18] 主日以降全部が1つずれている。その前は数週ぶん欠落している)。あと,「聖霊降臨後」の部分については何とも書いていなかったり「聖霊降臨の八日間後」と書いていたりといったゆれがあり,特に後者については「聖霊降臨後」と「聖霊降臨の八日間後」とでは普通に考えたら1週間ずれるはずなので大問題のようにも思えるが,たぶんこれは,聖霊降臨の八日間が実際には7日間しかない (土曜日で終わる) ので結局同じことになる,ということではないかと思う。
【テキストと全体訳】
Salus populi ego sum, dicit Dominus: de quacumque tribulatione clamaverint ad me, exaudiam eos: et ero illorum Dominus in perpetuum.
Ps. Attendite popule meus legem meam: inclinate aurem vestram in verba oris mei.
【アンティフォナ】「民の救いである,私こそは」と主は言われる。「彼らがいかなる艱難から私に向かって叫ぶときも,私は彼ら [の嘆願] を聞き入れよう。そして私は永久に彼らの主であろう。」
【詩篇唱】注意を向けよ,わが民よ,わが律法に。おまえたちの耳を傾けよ,わが口の言葉に。
ラテン語学習の教材としてお使いになりたい方のため,以下に古典ラテン語式の母音の長短も示しておく。このテキストは教会ラテン語なので,この通り発音されるべきだというわけではなく,あくまで学習用のものとお考えいただきたい。
Salūs populī ego sum, dīcit Dominus: dē quācumque trībulātiōne clāmāverint ad mē, exaudiam eōs: et erō illōrum Dominus in perpetuum.
Ps. Attendite popule meus lēgem meam: inclīnāte aurem vestram in verba ōris meī.
AMSでは,今回の入祭唱は57a (四旬節第3週の木曜日) と194a (聖霊降臨後第19主日) に載っている。
これらのうち57aのほうを見ると,モン-ブランダンMont-Blandinの聖歌書 (8–9世紀) では,冒頭の "Salus populi (民の救い)" が "Salus tua (あなたの救い)" となっている。また "exaudiam eos" は "exaudiam eum" となっている ("eos"「彼らを」でなく "eum"「彼を」となっている) が,それにもかかわらずその前の "clamaverint" という複数形をとっている動詞はそのままである。
また,同聖歌書に限らず,ここにまとめられている古いミサ聖歌書においては,詩篇唱で2番目に出てくる語 "popule" (呼格。「民よ」) が "populus" となっている。主格かと思ってしまう形だが,そうではなく,"populus" という名詞は例外的に呼格でもこの形になることがあるというだけである (ほかの例:アドヴェント第2週の入祭唱の冒頭,"Populus Sion"「シオンの民よ」)。
あと細かい点だが,詩篇唱の最初の語 "Attendite" は "Adtendite" となっている。これは単に音便の問題である。
その一方で,194aのほうを見ると,こちらではモン-ブランダンの聖歌書のテキストはほかの聖歌書のテキストと一致している。本当にそうなっているのか,もとの写本に当たって確かめてみたいところだが,たいへんそうなので今回はやめておく。
それから,57aでは詩篇唱としてGRADUALE ROMANUM (1974) / TRIPLEXと同じく詩篇第77篇 (ヘブライ語聖書では第78篇) が記されているのだが,興味深いことに,194aでは別の詩篇 (第118 [119] 篇) が指定されている。同じ改革前典礼でも,1962年版ミサ典書ではこのようなことはなされておらず,常に第77 (78) 篇が採られている。
【元テキストとの比較など】
アンティフォナのテキストはかなり自由に作られており,GRADUALE TRIPLEXにおいては翻案元の聖書テキストとして詩篇第36篇 (ヘブライ語聖書では第37篇) 第39,40,28節が挙げられているものの,私は別の考えを持っている。
しかしまず,この詩篇第36 (37) 篇第39,40,28節がVulgata=ガリア詩篇書でどうなっているか見てみよう。
ごらんの通り,共通する語が散見し,全体のメッセージも似たところがあるとはいえ,これを今回の入祭唱のもとと見るのはかなり苦しいのではないだろうか。
次に,私の考える元テキストを掲げる。
まず詩篇34:3の "salus tua ego sum (私こそはおまえの救いだ)" という言葉が,上で述べたモン-ブランダン写本におけるこの入祭唱の冒頭と一致する。
さらに言うと,この言葉が「私の魂におっしゃってください (dic animae meae)」という願いに続いて,何を言ってほしいのかの内容として出てくるところにも意味があると思う。入祭唱のほうで,「~と主は言われる (dicit Dominus)」という言葉がわざわざ入っていることに対応するのではないかと思うからである (とはいえ,こういう言葉が入るのはそう特別なことではないだろうが)。「言ってください」と頼んだ (詩篇) 言葉をそのまま言ってくれた (入祭唱) というわけである。
次にイザヤ書46:7は,入祭唱のテキストで言われている内容そのものではないが,それと対比するに実にふさわしい内容を持つので,珍しいケースではあるが実際これが下敷きになっているのではないかと思うのである。困ったときに叫んでも,偶像はそれを聞いてはくれない,聞くことができない (イザヤ書)。それに対し,本物の神,生きている神である「主」は「彼らがいかなる艱難から私に向かって叫ぶときも,私は彼ら [の嘆願] を聞き入れよう (彼ら [の叫び] をよく聴こう)」と言うのである (入祭唱)。
最後に知恵の書3:8だが,これは "regnabit Dominus illorum in perpetuum (主は永久に彼らの王として君臨するであろう)" という言葉が入祭唱の "ero illorum Dominus in perpetuum (私は永久に彼らの主であろう)" という言葉とたいへんよく似ているので挙げた (なお「知恵の書」というのはいわゆる「旧約聖書続編」中の一文書である)。入祭唱同様に知恵の書のほうでも,義人たちが試練に遭った後神によって救われるという話の中で出ている言葉なので,文脈的にも合うといえる。
以上のうち特にイザヤ書46:7を念頭に詩篇唱のテキスト (詩篇第77 [78] 篇) を読むと味わい深い。偶像は救わないが本物の神は救う。ここで次の聖書箇所に思いを向けたい。
これは,イスラエルの民がエジブトから脱出して約束の地を目前にしたとき,彼らを導いてきたモーセが最後に民に向かって語った言葉の一部である (奇しくも現行の「通常形式」の典礼では,四旬節においてこの入祭唱が用いられる日の前日,すなわち四旬節第3週の水曜日の第1朗読がこの箇所である)。
「主」はエジプトで奴隷にされていたイスラエルの民の苦しむ声を聞き,彼らを救い出した。そして,彼らがその後自由と祝福の中に留まるためには,彼らの声を唯一聞き,彼らを唯一救い出すことができた「主」の掟と法を守ることが必要だという。
今回の入祭唱の詩篇唱で「わが律法に注意を向けよ」「私の口の言葉に耳を傾けよ」と言われているのも,このような文脈で捉えるべきであろう (実際,ここにその第1節が引用されている詩篇第77 [78] 篇の内容の大部分は,出エジプトを中心とするイスラエルの民の歴史の回顧である)。単に遵法精神を持って真面目に生きよという話ではなく,「主」の救いの中に留まるためには彼の掟を守らなければならない (あるいは,救われた者ならばそのように生きるはずである,という言い方もある),というわけである。そして掟の最初に来るのはほかならぬこれである。
アンティフォナの分析においてイザヤ書46:7を引き合いに出しつつ述べたように,偶像 (ほかの神々) は苦難の中から叫んでも聞くことができず助けることもできず,それをしてくれるのはただひとり「主」だけだからである。
最後に,いつものように詩篇唱のテキスト (第1節のみ) をその出典と比較する。
Vulgata=ガリア詩篇書でもローマ詩篇書でも (「Vulgata=ガリア詩篇書」「ローマ詩篇書」とは何であるかについてはこちら),冒頭 "Attendite" が "Adtendite" となっており,その次の語は "popule" ではなく "populus" となっている。いずれも,AMSにまとめられている8–9世紀のミサ聖歌書と同じである (既述)。それ以外は,両詩篇書とも詩篇唱のテキスト (AMSか今の聖歌書かを問わず) と一致している。
【対訳】
【アンティフォナ】
Salūs populī ego sum, dīcit Dominus:
「民の救いである,私こそは」と主は言われる。
別訳 (自然な日本語の語順にしたもの):「私こそは民の救いである」と主は言われる。
dē quācumque trībulātiōne clāmāverint ad mē, exaudiam eōs:
「彼らがいかなる艱難 (苦悩,窮境) から私に叫ぶときも,私は彼ら [の嘆願] を聞き入れよう。
別訳:「[……] 私は彼ら [の叫び] をよく聴こう。
et erō illōrum Dominus in perpetuum.
そして私は永久に彼らの主であろう。」
【詩篇唱】
Attendite popule meus lēgem meam:
注意を向けよ,わが民よ,わが律法に。
別訳 (自然な日本語の語順に直したもの):わが民よ,わが律法に注意を向けよ。
inclīnāte aurem vestram in verba ōris meī.
おまえたちの耳を傾けよ,わが口の言葉に。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
salūs populī 民の救い (salūs:救い [主格],populī:民の)
冒頭に現れる主格の名詞だが,主語ではなく,補語である。
ego 私が
ラテン語では省略できる1人称代名詞をわざわざ出すことによって「私が」ということを強調している。
sum 私が~である (動詞sum, esseの直説法・能動態・現在時制・1人称・単数の形)
dīcit 言う (動詞dīcō, dīcereの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
Dominus 主が
dē quācumque trībulātiōne いかなる艱難 (苦悩,窮境) から~でも (dē:~から,quācumque:いかなる~でも,trībulātiōne:艱難,苦悩,窮境 [奪格])
clāmāverint 彼らが叫ぶ/叫んだ (動詞clāmō, clāmāreの直説法・能動態・未来完了時制・3人称・複数の形)
この動詞は直前の "de quacumque tribulatione" で始まる従属節の中にあり,この従属節は主節より時間的に前のことを言おうとしている。主節の動詞 "exaudiam" は未来時制をとっている。主節が未来時制で,従属節が主節の内容に比べて前の時点のことを述べる場合,従属節は未来完了時制をとることになっている。
ad mē 私に向かって (ad:英 "to",mē:私 [対格])
exaudiam 私がよく聴こう,私が聞き入れよう (動詞exaudiō, exaudīreの直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形)
eōs 彼らを
et (英:and)
erō 私が~であろう,私が~になる (動詞sum, esseの直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形)
illōrum 彼らの (指示代名詞,男性・複数・属格)
Dominus 主 (単数・主格)
in perpetuum 永久に
【詩篇唱】
attendite 注意を向けよ (動詞attendō, attendereの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
popule meus 私の民よ (popule:民よ [単数],meus:私の)
命令する動詞は複数形なのに,呼びかける相手を示す名詞は単数形である。どうも,文法的には単数であっても意味の上では「複数の人間」を表しているときにこのような現象が起きることがあるようで,ほかにもそういう例がある。
lēgem meam 私の律法に (対格) (lēgem:律法に [対格],meam:私の)
inclīnāte 傾けよ (動詞inclīnō, inclīnāreの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
aurem vestram あなたたちの耳を (aurem:耳を,vestram:あなたたちの)
in verba 言葉に (向けて) (verba:言葉 [中性・複数・対格])
「in + 対格」は基本的に「方向」を示す。
ōris meī 私の口の (ōris:口の,meī:私の)
直前の "verba" にかかる。