拝領唱 "Comedite pinguia" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ119)

 Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, p. 268 (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じだが,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため後者のみ記す).
 
Graduale Novum I, pp. 233–234.
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更新履歴

2025年1月23日 (日本時間24日)

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【教会の典礼における使用機会】

【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】

 1972年版Ordo Cantus Missae (Graduale Triplexはだいたいこれに従っている) では,今回の拝領唱は次の機会に割り当てられている。

  •  年間第3主日 (C年のみ) 。

  •   「種々の機会のミサ」のうち「収穫の後 (Post collectos fructus terrae)」。ほかの選択肢あり。

 Graduale TriplexやGraduale Novumではさらに,奇数年の年間第26週の木曜日にもこの拝領唱を用いるよう指示されている。

 2002年版ローマ・ミサ典礼書 (Missale Romanum) には,PDF内で "comedite", "pinguia", "bibite mulsum" をそれぞれキーワードとする検索をかけた限りでは,今回の拝領唱は載っていないようである。 

【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】

 1962年版ローマ・ミサ典礼書では,今回の拝領唱は9月の「四季の斎日」の水曜日 (日取りは9月17日※の後最初の水曜日) に置かれている。上記同様のキーワードでPDF内検索をかけた限りでは,ほかの使用機会は見つからなかった。

※ 日取りが正式に決められた1078年から1960年までは,9月14日の後最初の水曜日と定められていた。いずれにせよ「9月第3週」を四季の斎日の週にあてることは同じなのだが,典礼暦上の「9月第3週」をどの週とするかの考え方が変わったことによりこのような変更が生じたという。参考:Wikipedia英語版の "Ember Days" の項。日取りが最初に正式に決められたのが1078年であることについては,Auf der Maur 1983, p. 55を参照。
 ミサ典礼書や聖歌書では,9月の四季の斎日は「聖霊降臨後第17主日」の次に載っている。Volksmissale (p. 659 T) によると,9月の四季の斎日は古くは実際常にこのタイミングで行われていたのだという。

 AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書でも同様である (AMS第190欄)。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Comedite pinguia, et bibite mulsum, et mittite partes eis qui non praeparaverunt sibi: sanctus enim dies Domini est, nolite contristari: gaudium etenim Domini est fortitudo nostra.
脂身をたらふく食べよ,蜂蜜酒を飲め,自分たちのために (脂身や蜂蜜酒を=ごちそうを) 用意していない人々に (彼らの) 分を与えよ。しゅの聖なる日であるからだ。悲しんではならない。主を喜ぶことがわれらの力なのだから。

 ネヘミヤ記 (Vulgataでは「第2エズラ記」) 第8章第10節 (※) が用いられている。バビロン捕囚からついに帰還したイスラエルの民が広場に集まり,皆でモーセの律法の書の朗読を聴くということが行われた記念すべき日,朗読を聴いて涙を流していた彼らに向かって言われた言葉である。
 
テキストはドイツ聖書協会2007年第5版Vulgataの本文とは次に示す点で異なっているが,いずれも大した違いではない。意図的な変更が行われたのではおそらくなく,単に何らかの別のラテン語聖書テキストがもとになっているだけであろう。

  •  拝領唱の "eis qui non praeparaverunt sibi" (複数形) が上記版Vulgataでは "ei qui non praeparavit sibi" (単数形)。

  •  拝領唱の "sanctus enim dies Domini est" は,上記版Vulgataでは "quia sanctus dies Domini est"。意味はほぼ同じ。

  •  上記版Vulgataでは "nolite contristari" の前に "et" (英:and) がある。

  •  "gaudium etenim Domini est fortitudo nostra" の "etenim" は,上記版Vulgataでは "enim"。意味はほぼ同じ。

※ 七十人訳ギリシャ語聖書では「エズラ記Βベータ」第18章第10節となっている。「エズラ記Β」は現代の一般的な聖書でいうエズラ記とネヘミヤ記とを含むものであり,ネヘミヤ記にあたる部分が第11章から始まっているためこのようなことになっている。
 普通にいうところのエズラ記・ネヘミヤ記が「Β」なら, 「Αアルファ」は何なのかというと,これはヘブライ語聖書には含まれていないテキストで,プロテスタントだけでなくカトリック教会でも外典である (東方諸教会では正典)。聖書協会共同訳聖書や新共同訳聖書 (いずれも「旧約聖書続編付き」のもののみ) に「エズラ記 (ギリシア語)」として収められているテキストがこの「エズラ記Α」にあたる。Vulgataには「第3エズラ記」として収められている。


【対訳・逐語訳】

Comedite pinguia, 

脂身をたらふく食べよ,

comedite 食べよ,食い尽くせ (動詞comedo, comedereの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形) ……この動詞自体は単に「食べる」というより「食い尽くす」という意味らしいが,後で「ほかの人々に一部を与えよ」というような言葉が出てくるためこの解釈は採らず,やや控えめにして「たらふく食べる」くらいにする。
pinguia (動物の) 脂肪を (複数形) ……単数の主格・対格形は “pingue”。

et bibite mulsum,

蜂蜜酒を飲め,

et (英:and)
bibite 飲め (動詞bibo, bibereの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
mulsum 蜂蜜酒を

et mittite partes eis qui non praeparaverunt sibi: 

訳1:そして自分たちのために (脂身や蜂蜜酒を=ごちそうを) 準備していない人々に (彼らの) 分を与えよ,
訳2:(……) (脂身や蜂蜜酒の=ごちそうの) 一部を与えよ,
 いずれの訳を採るにせよ,実際に行われることは同じといってよい。

et (英:and)
mittite 送れ,贈れ,与えよ (動詞mitto, mittereの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
partes 部分を,分け前を (複数形)
eis (英:to those) (代名詞,男性・複数・与格) ……直訳すると「彼らに (英:to them)」だが,既出の人物を指しているのではなく,次のqui以下の関係詞節で述べられるような人々を指している。つまり,"those who" における "those" である。
qui (英:関係代名詞who) (関係代名詞,男性・複数・主格) ……直前の “eis” を受ける。男性形をとっているのは対象を男性の人間に限定しているからではなくて,特に性別を限定せず集団について述べるときにはラテン語では男性形を用いることになっているからである。
non praeparaverunt 準備していない,準備しなかった (non:[否定詞],praeparaverunt:準備してある,準備した [動詞praeparo, praeparareの直説法・能動態・完了時制・3人称・複数の形]
sibi 自身に

sanctus enim dies Domini est, 

しゅの聖なる日なのだから。

sanctus 聖なる ……2語あとの "dies" にかかる。
enim というのも〜なのだ
dies Domini しゅの日 (dies:日 [主格],Domini:主の)
est である (英:is) (動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)

  •  上記の訳では主語が見当たらない。「(今日は) 日曜日です」と英語でいうとき,形式主語itを用いて "it is Sunday" というが,これと同じような文であると解釈したものである。
     文法的には "sanctus" を補語,"dies Domini" を主語とみて「主の日は聖なるものなのだから」と解釈することも可能だし,この文単体で見ればそれでも意味が通る。しかし,脂身をたらふく食べて蜂蜜酒を飲め,つまり祝宴を催せということが言われた後,どうしてそうするのか述べているのがこの文なのだから,祝宴を催すよう言われているこの日が特別な日なのだという内容がくるほうがしっくりくる。というわけで「(今日は) 主の聖なる日なのだから」という解釈のほうがよいと考えられる。

  •  復活の八日間の昇階唱 “Haec dies” などでは女性名詞として現れる “dies (日)” が,ここでは男性名詞として現れている (これにかかっている形容詞 "sanctus" が男性形であることからそうと分かる) のは興味深い。これはグレゴリオ聖歌のテキスト間での相違というだけでなく,それぞれの聖歌テキストに対応するVulgataの箇所からしてそうなっている ("Haec dies" のもとは詩篇第117 [118] 篇第24節)。

nolite contristari: 

悲しくなるな。

nolite ~するな (動詞nolo, nolleの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
contristari 悲しまされる;悲しくなる (動詞contristo, contristareの不定法受動態・現在時制の形) ……「悲しくなる (traurig werden)」はSleumerに受動態のときの意味として載っている。

gaudium etenim Domini est fortitudo nostra.

訳1:しゅを喜ぶことがわれらの力なのだから。
訳2:われらの力は主を喜ぶことなのだから。
 いずれの訳においても,こなれた日本語にすることを優先するなら「主を喜ぶ」の部分は「主を喜びとする」とするほうがよいかもしれない。

gaudium 喜びが;喜び (主格) ……主語とも補語ともとれる。
etenim
というのも~だから
Domini
しゅの ……2つ前の "gaudium" にかかる属格形。つまり直訳すると「主の喜び」となるわけだが,文脈上これは目的語的属格と呼ばれる用法だと考えられ, 「主喜ぶこと」ではなく「主喜ぶこと (喜びとすること)」と解釈するのがふさわしい。
est である (動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
fortitudo nostra
われらの強さ,われらの力 (主格);われらの強さが,われらの力が (fortitudo:強さ [が],力 [が],nostra:われらの) ……補語とも主語ともとれる。

 

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