入祭唱 "Suscepimus Deus misericordiam tuam" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ24)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 300-301 または pp. 543-544 (どちらでも同じ); GRADUALE NOVUM I pp. 280-281.
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更新履歴
リンクの追加やレイアウトの整備などのみで,内容に変わりがない (あるいは些末な変更しかない) ときには記さない。
2022年7月1日
全体訳中,詩篇唱の訳を少し改めた (原文の解釈には変更ない)。
2020年7月5日 (日本時間6日)
旧典礼での降誕節は2月2日までだったと書いていたのだが,たしかにそう聞きはするものの,どういう意味でか,いつまでそうだったのかといったことについてしっかりした情報が手元にないため,控えめな言い方に改めた。なお1962年版ミサ典書での降誕節 (厳密には「降誕節」と「公現節」とから成る「降誕節系の時節」) は1月13日までである。
2019年7月2日
旧典礼での使用機会について,また「老シメオン」について補足した。
2019年1月30日 (日本時間31日)
投稿
【教会の典礼における使用機会】
現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントに導入された,今のカトリック教会で最も広く見られる典礼) では,主の奉献の祝日 (毎年2月2日) と年間第14週に歌われる。ほかに,教会献堂式のミサや献堂記念のミサでも用いられることがある。
旧典礼 (1969年以前の典礼,ただし現在も「特別形式」典礼として一部で行われ続けている) でも,この入祭唱は2月2日のほか「聖霊降臨祭後第8主日」(今の年間第14主日とおおよそ同じタイミングだが,復活祭の日取りによって変わってくる) に歌われることになっている。
この「聖霊降臨祭後第8主日」に読まれる使徒書はローマ書第8章第12-17節,福音書はルカ第16章第1-9節である。今の年間第14主日の朗読箇所と比べると,A年の第2朗読 (ローマ書第8章第9節および第11-13節) が上記の使徒書と一部重なっているが,あとはすべて違っている。聖霊降臨祭後アドヴェント前までの朗読箇所は (祭日などを除けば) 新旧典礼ですっかり変わっている (だいいち,旧典礼では1年周期であったものが新典礼では3年周期になっている) にもかかわらず,入祭唱の割り当てはほぼそのまま残されている結果,このようなことになっている。
なお,昇階唱や奉納唱についてはこの点どうなのかについては,調べていないので今の私には分からない。拝領唱は福音書のメッセージを繰り返すことが大切なので (福音書という形で受け取ったキリストを聖体拝領でも受け取る,という考え方に基づいている),さすがになるべく今の朗読箇所に合わせたものが割り当てられている。
主の奉献の祝日は,旧約の律法に従ってイエスが生後40日目にエルサレム神殿に捧げられた (最初の子は神に捧げねばならないという規定があった。実際には皆,いくらかの奉納金を支払うことで親元に留めることができた) ことを記念するものである。なお旧典礼ではこの日は「マリアの清めの祝日」と呼ばれており,マリアの清めとは,聖母マリアが産後の清め (これも旧約の律法の規定) を受けたことを指すが,記念される内容自体に変わりはない。
いずれにせよ,この祝日の最も特徴的な登場人物は,神殿で聖家族に会った老シメオン (なお,シメオンが老人であったという記述は聖書にはない) と老アンナである。特にシメオンの「主よ,今こそあなたは,お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」(ルカ2:29,新共同訳) という一文から始まる言葉は有名であり,聖務日課の「寝る前の祈り (終課,コンプレトリウム)」で毎日用いられるほか,ルターによる "Mit Fried und Freud ich fahr dahin" というドイツ語聖歌への翻案を通してシュッツやブクステフーデやJ. S. バッハなどの教会音楽作品のもとにもなった。
イエスが生後40日ということで,この祝日は降誕節的な性格を持っており,またそのような日々の最後のものである。クリスマスツリーや馬小屋 (クリスマス人形) を2月の頭まで出したままにしている教会があったら,それはそういう事情によるものである (というより,昔は正式に2月2日まで降誕節だったという話も聞くので,そうであればその名残だと言ったほうがよいだろう)。
なお,降誕節的なのはイエスの年齢だけではない。シメオンはイエスを「万民のために (神が) 整えてくださった救い」「異邦人を照らす啓示の光」と呼ぶ。アドヴェント以来繰り返し言及されてきた「異邦人 (万民) の救い」というテーマ (アドヴェント第2週の入祭唱,主の公現の祭日など) が,ここにも現れているのである。
主の奉献の祝日には,聖堂でのミサを始める前にまず皆屋外に集まり,点されたろうそくを持って行列 (列をなして歩くこと) を行う (それゆえこの日のミサには「光のミサ」という別名がある)。この入祭唱は,行列が聖堂に入ってゆくときに歌われるものである。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Suscepimus, Deus, misericordiam tuam in medio templi tui : secundum nomen tuum Deus, ita et laus tua in fines terrae : iustitia plena est dextera tua.
Ps. Magnus Dominus, et laudabilis nimis : in civitate Dei nostri, in monte sancto eius.
【アンティフォナ】神よ,私たちはあなたのあわれみをあなたの神殿の只中で受け取りました。神よ,御名がそうであるように,あなたへの讃美もまた地の果てにまで及んでいます。あなたの右の御手は正義に満ちています。
【詩篇唱】主は偉大な方であり,われらの神の都で,ご自身の聖なる山で,大いに誉め称えられるべき方である。
アンティフォナの出典は詩篇第47 (一般的な聖書では48) 篇第10-11節であり,詩篇唱に用いられているのも同じ詩篇である (ここに載っているのは第2節)。テキストはPsalterium Romanum (ローマ詩篇書) の同箇所と完全に一致する。Vulgata = Psalterium Gallicanum (ガリア詩篇書) は, "ita" を "sic" としていること以外は同じである。(これらの詩篇書についての解説はこちら)
【対訳】
【アンティフォナ】
Suscepimus, Deus, misericordiam tuam in medio templi tui:
私たちは受け取りました,神よ,あなたのあわれみを,あなたの神殿の只中で。
別訳:私たちは思いめぐらしました,神よ,あなたのあわれみについて,あなたの神殿の只中で。
考察:
神殿 (エルサレム神殿) で待っていたシメオンが幼子イエスを抱いた場面に見事に合い,主の奉献の祝日に実にふさわしい。
secundum nomen tuum Deus,
御名がそうであるように,神よ,
ita et laus tua in fines terrae:
そのように,あなたへの讃美も地の果てにまで及んでいます。
別訳:そのように,あなたへの讃美も地の果てにまで及びますように。
解説:
ラテン語にはよくあることだが,英語でいうところのbe動詞が省略されている。主語は "laus tua"「あなたへの讃美」。省略されているbe動詞が直説法だとすれば,「あなたへの讃美があります (捧げられています)」(事実の叙述) となり,接続法だとすれば,「あなたへの讃美がありますように (捧げられますように)」(祈願) となる。翻訳元 (ヘブライ語原典,七十人訳,Vulgata) を問わず諸々の日本語・英語・ドイツ語聖書が直説法をとっているので,まずは私もそれに倣うことにする。
このテキストがもとは詩篇の一部であり,イスラエルの神を拝まない諸民族 (異邦人) の存在が前提となっているはずであることを考えれば,接続法ととって「地の果てに至るまであなたへの讃美がありますように (捧げられますように)」とするのがよさそうなものである。しかし,この詩篇第47 (48) 篇は,預言的・終末論的な内容を持っているそうで,つまり目の前の現実というより終わりにおける完成を描いたものらしい (参考:バルバロ訳聖書詩篇第47 (46) 篇への註と,銘形牧師の「牧師の書斎」)。そうであれば直説法なのも理解できるというものである。
いずれにせよ,このラテン語テキスト自体はbe動詞が省略されている以上中立である。
考察:
この箇所は,イエスを「万民のために整えてくださった救い」「異邦人を照らす啓示の光」と呼んだシメオンの言葉に合い,やはり主の奉献の祝日にふさわしい。なお "fines terrae"「地の果て」という語句は,主の降誕の祭日・日中のミサの昇階唱・拝領唱 "Viderunt omnes fines terrae salutare Dei nostri (すべての地の果ては私たちの神の救いを見た)"を想起させる。
iustitia plena est dextera tua.
正義に満ちています,あなたの右の御手は。
【詩篇唱】
Magnus Dominus,
偉大である,主は,
解説:
ここでも,英語でいうbe動詞が省略されている。
et laudabilis nimis:
また (主は) 大いに誉め称えられるべきである,
in civitate Dei nostri, in monte sancto eius.
われらの神の都で,彼の聖なる山で。
解説:
「われらの神の都」,「彼 (主) の聖なる山」はいずれもエルサレムのこと。なお「都」と訳した "civitate" (<civitas) は単に「都市」という意味であり,その意味では「町」とでもしたほうが語義には合う気もするが,エルサレムなので「都」としてよいと考えた。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
suscepimus 私たちが受け取った,私たちが思いめぐらした (動詞suscipio, suscipereの直説法・能動態・完了時制・1人称・複数の形)
Deus 神よ
misericordiam tuam あなたのあわれみを,あなたの慈悲を (misericordiam:あわれみを/慈悲を,tuam:あなたの)
in medio 真ん中で (medio:真ん中 [奪格])
templi tui あなたの神殿の (templi:神殿の,tui:あなたの)
secundum ~に応じて,~に従って
nomen tuum あなたの名前 (nomen:名前 [対格],tuum:あなたの)
Deus 神よ
ita そのように
et ~もまた (英:also)
laus tua あなたへの讃美が (laus:讃美が,tua:あなたへの)
一般に,ラテン語で「~の」を意味する語は「~への」をも意味しうる。ここでは "tua" がそれで,基本的には「あなたの」という意味の語だが,文脈上「あなたへの」ととる。
in fines terrae 地の果てにまで (fines:果て [対格],terrae:地の)
iustitia 正義で (奪格)
続く "plena est"「満ちている」にかかり,何で (何に) 満ちているのかを示す。
plena 満ちた (形容詞)
est (英:is) (英語でいうbe動詞sum, esseの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
dextera tua あなたの右手が (dextera:右が/右手が,tua:あなたの)
【詩篇唱】
magnus 大きい,偉大である
Dominus 主が
et (英:and)
laudabilis ほめられるべきである,たたえられるべきである
nimis 非常に (直前の "laudabilis" にかかる)
in civitate Dei nostri 私たちの神の都市で (civitate:都市/国 [単数・奪格],Dei:神の,nostri:私たちの)
特定の都市エルサレムのことなので,単数。
in monte sancto eius 彼の聖なる山で (monte:山 [単数・奪格],sancto:聖なる [「山」にかかる],eius:彼の)