入祭唱 "Ecce Deus adiuvat me" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ86)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 307; GRADUALE NOVUM I p. 289.
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 GRADUALE NOVUMでは子音字としてのiをjで記すので,この入祭唱の冒頭は "Ecce Deus adjuvat me" となっている。
 


【教会の典礼における使用機会】

【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】

 1972年版Ordo Cantus Missae (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,年間第16週に割り当てられている。

 2002年版ミサ典書における年間第16主日の入祭唱のテキストは,前半は本稿で扱うものと同じだが,後半が異なっている。今回の入祭唱アンティフォナの大部分は詩篇第53篇 (ヘブライ語聖書では第54篇) 第6–7節なのだが,第7節にあたる部分がこちらでは第8節に置き換わっているのである。

【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】

 AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書でも,1962年版ミサ典書でも,「聖霊降臨後第9主日」に割り当てられている
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Ecce Deus adiuvat me, et Dominus susceptor est animae meae: averte mala inimicis meis, in veritate tua disperde illos, protector meus Domine.
Ps. Deus in nomine tuo salvum me fac: et in virtute tua iudica me.
【アンティフォナ】見よ,神が私をお助けくださる,主が私の魂の助け手でいてくださる。諸々の災いを私の敵どものほうに転じてください,あなたの真理によって彼らを壊滅させてください,私の守護者であられる主よ。
【詩篇唱】神よ,御名によって私をお救いください。御力によって私をお裁きください。

 上でも述べた通り,アンティフォナの大部分は詩篇第53篇 (ヘブライ語聖書では第54篇) 第6–7節である。テキストはだいたいローマ詩篇書に一致している (ローマ詩篇書では最初の "Ecce" の次に "enim","in veritate tua" の前に "et" があるのが入祭唱アンティフォナにはない。いずれも接続詞である)。 (「ローマ詩篇書」,また後で出てくる「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら。)

 最後の "protector meus Domine" は同詩篇にない言葉である。ローマ詩篇書のテキストに基づくと,詩篇全体でこの語句が現れる箇所は2つ ("Domine" 抜きだと6つ) あり,それは第30篇第5節と第58篇第12節なのだが,思うに,特に注目に値するのは後者である。

disperge illos in virtute tua
et destrue eos protector meus Domine
御力によって彼らを散らしてください,
彼らを潰してください,私の守護者であられる主よ。

詩編第58 (59) 篇第12節後半 (ローマ詩篇書)

 これを今回の入祭唱アンティフォナの終わりの部分と比較していただきたい。"protector meus Domine" の前にある言葉が,"disperde illos (彼らを壊滅させてください)" / "disperge illos (彼らを散らしてください)","in veritate tua (あなたの真理によって)" / "in virtute tua (あなたの力によって)" と,字面や響きの点でよく似ていることがお分かりいただけると思う。意味の点でも,同義語でこそないが方向性はまあ同じといってよい。このことから,"protector meus Domine" の出所はこの詩篇第58篇第12節であろうと推測する。
 典礼文の成立に関わっていたのは詩篇全体を暗唱し血肉としていた人々であろうから,自然にこのような連想が働いて,本来離れたところにあるテキストを特に作為なしにつなげてしまった,ということは十分に考えられると思う。

 詩篇唱にもアンティフォナと同じ詩篇第53篇 (ヘブライ語聖書では第54篇) が用いられており,ここに掲げられているのは第3節 (第1節と第2節はタイトルなので,これが実質的に最初の節) である。テキストはVulgata=ガリア詩篇書に一致している。
 興味深いことに,ローマ詩篇書では "iudica (裁いてください)" が "libera (解放してください)" となっている。ここでいう「裁く」ことが何を意味するかを教えてくれているようでもある (そして,アウグスティヌスによればこの「裁く」は実際そのような意味である。後述)。
 

【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】

Ecce Deus adiuvat me,

見よ,神が私を助けてくださる,

ecce 見よ,ほら (間投詞)
Deus
神が
adiuvat
支える,助ける,援護する (動詞adiuvo, adiuvareの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
me
私を

et Dominus susceptor est animae meae:

主が私の魂の助け手でいてくださる。

et (英:and)
Dominus 主が
susceptor 助け手,守護者
est である (動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
animae meae 私の魂の (属格);私の魂にとって (与格) (animae:魂の/魂にとって,meae:私の) ……属格ととる場合,2つ前の "susceptor" にかかることになる。ここでは属格と取っても与格と取っても結局同じことになるので,考え込む必要はない。七十人訳ギリシャ語聖書では属格。

averte mala inimicis meis,

諸々の災いを私の敵どものほうに転じてください,

averte 向きを変えてください (動詞averto, avertereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
mala 諸々の災いを
inimicis meis 私の敵ども (のほう) に (inimicis:敵どもに,meis:私の)

in veritate tua disperde illos,

あなたの真理によって彼らを壊滅させてください,

in veritate tua あなたの真理によって (veritate:真理 [奪格],tua:あなたの)
disperde (完膚なきまでに) 破壊してください (動詞disperdo, disperdereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
illos 彼らを;あの者どもを ……本来は後者の意味だが,教会ラテン語ではごく普通に単に前者の意味でも用いられる。

protector meus Domine.

私の守護者であられる主よ。
別訳:私の守護者よ,主よ。

protector meus 私の守護者よ (protector:守護者よ,meus:私の)
Domine 主よ

  •  "protector meus" と "Domine" という同格の2要素が並べられている。このような場合,同格の2要素を仮にA,Bとすると,「Aである (Aとしての) B」「Bである (Bとしての) A」のいずれの意味にもなり,単に「A,B」というだけの意味のこともある。
     

【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】

Deus in nomine tuo salvum me fac:

神よ,御名によって私をお救いください。

Deus 神よ
in nomine tuo
あなたの名によって (nomine:名 [奪格],tuo:あなたの)
salvum
損なわれていない状態 ……英語でいう "make A B (AをBにする)" の "B" に当たる。後述の通り,"fac" とセットで捉えるのがよい。
me
私を ……英語でいう "make A B (AをBにする)" の "A" に当たる。
fac ~にしてください (英:make) (動詞facio, facereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形) ……英語でいう "make A B (AをBにする)" の "make" に当たる。後述の通り,"salvum" とセットで捉えるのがよい。

  •  "salvum facere (>fac)" は「救う」という意味の熟語だと考えるのがよい (聖書のラテン語によく出てくる)。

et in virtute tua iudica me.

そして,御力によって私をお裁きください。

et (英:and)
in virtute tua
あなたの力によって (virtute:力 [奪格],tua:あなたの)
iudica
裁いてください (動詞iudico, iudicareの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
me 
私を

  •  助けてほしいのに,自分を「お裁きください」と願うというのはなんとも奇妙に思われる。そう思うのはわれわれ (少なくとも私) だけではなくて,アウグスティヌスも,もしただ「お裁きください」と言うだけであったとしたらたしかにそれは呪いだと言っている (参考:『アウグスティヌス著作集』第18巻II [詩編注解 (2)],教文館,2006年,p. 619)。

  •  しかし実際にはこれが呪いにならないのは,直前で「御名によってお救いください」と言っているためだという。先にもう救われているので,ここでの「裁き」は悪人たちから自分を分けること,つまり解放を意味することになるのである (参考:同上)
     
    なおアウグスティヌスはここで,「裁く」という語が同じような意味で用いられているほかの例として詩篇第42 (43) 篇第1節を挙げているが,この箇所は別の入祭唱 ("Iudica me") になっており,それを解説した記事の中でもこの問題を扱っているので,ご興味のある方はお読みいただきたい。

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