「note」への提案
noteには、なんでこんなにスピリチュアルな人があふれているのだろう。病んでいる人が多い印象もある。noteを否定するようで悪いんだが、「誰でも気軽に情報発信ができる」という一見メリットに見えるところに罠があると思う。罠って言い方もアレだが。
タレントでも芸能人でもインフルエンサーでもない一般人が、大多数に向けて発信すべき情報や見識などあんまりない。気軽さゆえにみんな筆をとるわけだけど、「記事」になるようなネタを持っているわけでもなく、自分に何か大きなニュースが立て続けに起こるわけでもない。noteをはじめること、そして続けることとは、とりたてて人に言うわけでもないことを書き連ねていかざるを得ない流れに身を置くということなんだろう。
書くことが見つからないのに、書こうとする。そこで、苦しみの種となるのが、ネタ探しである。ネタは自分の内部か、外部にしかない。外部のネタに関しては簡単だ。ニュースを見て、それに賛同するか、批判するか、ポジションをとればいい。よく「SNSは意見ではなく反応ばかり」という言説が見られるが、「反応」は何も悪くない。そのニュースに対して、まずそれを転載して、それに対する「いいね」「悪いね」の感想をのべて、それ以上の考察がないというだけ。考えが浅いというだけで否定するのもどうかと思う。まだ健全なほうだ。
問題にしたいのは、ネタを自分の内部に求める場合だ。自分の私生活で起きた諸問題や、日常のささいな悲喜コモゴモを書いている人は、どこかで「なぜそれを人に見せているのか」「見せるほどのことなのか」と思い至る。
本当に人に言いたいことなのかそれは。言うべき価値がそこにあるのか。そうでなければ、少し話を盛っておかなくては。みたいな意思が働く。これは健全ではない。あわよくば稼ぎたい、という欲がそうさせている場合が多く、また始めたんだから続けなきゃという生真面目さが、次に多いと思う。病んでいくのは後者である。
無理やり私生活を背伸びして悲しげに見せたり、楽しげにみせたり、装飾するのは自分に嘘をつき続けている行為になってしまうわけで、それはやっぱり病んじゃうよ。真面目な人ほど「真面目に更新するのだ。なんか探さねば、なんか記事になるようなネタを探さねば」とか自分で自分を追い詰めて病む。スキとかフォロワーとか気にしだすとなおさらそうなる。
「毎日書く」その誓いは、自分を縛っていく。「日常について書く」その規定も、自分を縛っていく。「私はこんなプロフィールだからこういうことを書く」それも、あなたを縛っている。その縛りが適度にゆるいか、その縛りが快感になるマゾだけが続くのだと思う。そのどちらでもなければ、書くほどに病んでいく。きついだけで、快感でもないのに、義務感だけで書いてるわけだからさ。
noteの精神として「創作を楽しみ続けること」「ずっと発表し続けること」を「なによりも優先されること」とか書いてるが、それは裏返せば「ずっと苦しみ続けること」なんだよね。創作は、苦しみとセット。そこを隠しちゃってるから、安易な参加者が増えて、真面目な人が病んでくわけなんだけど。
創作を楽しみ続けること。それは、苦しみ続けること。現実はこうなんだけど、まあ、noteとしては、それは言えないよね。利用者減るし。
これは、noteへの提案なんだが。noteが大切にしていること、というのに、三つ目がいると思う。
創作を楽しみ続けること。
ずっと発表し続けること。
でも、がんばりすぎないこと。
としたほうがいいと思う。
noteを見たり書いたりして1ヶ月。なんか痛々しい文章を目にすることが多い。文章を書くって薬だけど、毒だからね。書くことには、どうしても自分を美化して飾り立てる作用があるってことにみんなもうちょっと自覚的になる必要があると思うな。と、自戒をこめて言う。
さて、今日の音楽は、宇多田ヒカル 「花束を君に」
詩を書く人はとくにけんちょだが、骸を花で埋めるように、悲しみを言葉で彩っていく。こういう人らは、とくに病むと思うな。でも、病んでるからこそ、作品が美しいということがある。困ったもんだ。