見出し画像

映画『ノマドランド』が映す"永遠の夏"


今年も米アカデミー賞の季節がきた。開催は2ヶ月も後ろ倒しになり、公開された大作も少ないから、華々しさにはすこし欠けるけれど。

作品賞を含む三冠を達成した『ノマドランド』はそんな世間の空気感ともマッチする、極めて静謐かつ詩的な傑作だった。

「ホームレスではなく、“ハウスレス”」

ファーンは、通称"ノマド(フランス語で遊牧民の意)"と呼ばれる車上生活者。元々はネバダ州の企業城下町で暮らしていたが、夫に先立たれ、企業倒産の影響で住居も失った。基本的な衣食住は自前のキャンピングカーでまかない、収入はアメリカ中を放浪しながらその日暮らしをする。年末の繁忙期には季節労働者としてAmazonの工場で働き、行楽シーズンは国立公園の清掃、収穫の時期には農業を手伝ったりもする。

70歳にもなる高齢者には、どれもかなりの重労働だ。理想的な老後の過ごし方とは思えない。しかし、この映画の原作はノンフィクション本(『ノマド 漂流する高齢労働者たち』)であり、映画には本物のノマドが出演している。

劇中のノマドたちは、戦後ベビーブーム前後の時代に生まれた人たちだろう。出生率は現在の倍近く、少子化の不安とは無縁のパワフルな世代だ。成長し思春期を迎えた彼らは、ビートルズを聞き、ベトナム戦争に怒り、やがてヒッピーとなって社会からドロップアウトする。焚き火を囲んで自由を謳い理想を語るシーンは、日本人もアメリカ映画で見慣れた光景だと思う。

しかし、彼らの理想は崩壊する。80年代の資本主義全盛の波に飲み込まれる形で。

若いヒッピーたちも反抗の時代を終えて、家庭を作り、子供をもうける。夢を語っていればよかった季節も終わり、金を稼いで、家庭を維持し、子供を大学に入れる心配をしなけらばならない。いつの間にか、アメリカンドリームの象徴が自由や理想ではなく、資本主義社会のなかでいかに金を稼ぐかに置き換わっていった。

子をひとり立ちさせた後に彼らを待っていたのは金融崩壊と老後の不安である。一生懸命に尽くした企業や社会に見捨てられ、彼らはかつてと同じように社会からドロップアウトし放浪をはじめている。しかし、そこにあるのは社会への怒りではなく、諦念からくるある種の魂の解放であるようにも見える。

「どんな美しいものも、いつかは衰える」

ノマドの生活は限りなく"流動的"だ。

常に場所を移動し、定住しない。独自のコミュニティは築いているが、決して互いに強く結びついたりもしない。あくまで独立した個人として立ち、人との出会いは両手を広げて歓迎するが、別れもまた自然に受け入れる。太陽が東から登り西へ沈むように。川が下流に向かって流れるように。風に身を任せて生きる。

すべては諸行無常だ。季節は巡る。人も死ぬ。キャンピングカーは劣化するし、大事な皿も割れる運命にある。

それゆえ、社会の殻に守られている人たちから見れば不思議だろう。「そんな生活で寂しくないの?不安にならない?」映画を見た人からも、そんな声が聞こえてきそうだ。実際、劇中でもファーンになんどか手が差し伸べられる。「あなたもこの家で一緒に住まない?」その全てを断り、ファーンはノマドとして孤独に生きる選択をする。

劇中の職業紹介所で、ファーンはこんなこと言う。「年金では生活がままならない。私には仕事が必要。働くことが好きなの」と。ファーンがノマドであることを選択するのは、車上生活のなかで感じられる苦労も含めて生きることを実感し、人との出会いや自然とのふれあいを慈しむからだ。

「公務員か大企業で働いたほうがいい。安定がなにより大事」

90年代生まれの自分も親からそう言われ続けて育った。父親は小さな会社の営業マンとして不景気の時代を駆け抜け、家族のために朝から晩まで働き、子供3人を立派に社会へ送り出した。誰に褒められることもないけど、誰にでも出来ることじゃない。自分も社会に出てみて、よりそう実感する。

そんな父にも一度だけ引き抜きの話があった。40代後半の頃だったと思う。相手は現状より大きな会社で、提示された給料も良かった。営業マンとしての能力が評価されたのだ。でも、父はその申し出を断った。理由は色々とあるだろう。長く世話になった会社への義理や高齢で新しい環境へ行く不安、なにより家庭の安定を一番に考えての判断だったのだと今は思う。

でも、その時に自分が感じたのは父への"失望"だった。

能力が評価されたり、ひたむきに続けてきたことを報いられる機会はそうそうあるものではない。そして、そうゆう瞬間にこそ人は生きている実感を得るのではないだろうか、と子供ながらに思った。その背中は尊敬するに値するものだったのではないか、とも。父はその機会を捨てて、安定して生きていく道を選んだ。

実家に帰るとここそこが経年劣化著しいことに気づいて驚く。安定は、退屈や老朽化と隣り合わせだ。両親が老後に差し掛かった今、その場所で仲睦まじいとは言えない両親が暮らしていくことに幾ばくかの不安を覚える。仕事も終え、子供も巣立ったあと、自分が熱中したり生きている実感を得られる瞬間はあるのだろうか。今、あの家に残されているものは"安定"だけなのではないだろうか。

「この生き方が好きなのは、『最後のさよなら』がないこと」

劇中では、バッドランズ国立公園をはじめとして"岩"や"石"、あるいは"恐竜の骨"などが象徴的に登場する。刹那を生きる車上生活のなかで、唯一といっていい永遠性を担保するものとして。人は死に、街は廃れ、陽は沈み、時は過ぎ行く。でも石や骨はその一瞬をかたく凝縮して保存してくれる。ノマド仲間のスワンキーが死んだ時に、彼らはヒッピーのように焚き火を囲み、火の中に石を投げ入れる。彼女の生きた証を永遠に刻むように。

ファーンの亡き夫が詠んだという詩が印象的だった。

夏の太陽は燦然と輝くけれど、翳るのも早い。すべてのものはいつか衰える。しかし、君の永遠の夏は決して色褪せない。君の美しさは君だけのものだ。この詩の中で君は永遠に輝く。

この映画で描かれるノマドたちも同じだ。ファーンは放浪のなかで幾度も去りゆくバンを見送る。そのなかには、二度と会わない人もいるけど、季節が巡って意外な形で再開をはたす者もいる。最後のさよならはない。決められた家も、職も、家族も持たないことは、すべてに可能性が開かれているとも解釈できる。それは、いつか待ち受ける終わりから解放されることも意味するのではないだろうか。

"定住"はたしかに立派な生存戦略だ。でも、ただ生活するだけじゃ"生きる"ことを実感できない人もいるのだ。命が尽きるまで、人と出会い、陽を浴びて、働き続けることで得られる生の手触り。そうしたものを求めて、ノマドたちは永遠に夏を生き続けるのだと思う。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?