見出し画像

世界からの逃げ場で:不良の読書

十七歳の夏、いちばん仲が良かった男の子と喧嘩した。

彼には容姿端麗・成績優秀を体現したような二つ上のお兄さんがいた。お兄さんは女生徒たちの憧れだった。彼のほうは容姿端麗・成績優秀ではあったけれど、それ以上に学年でいちばんの問題児だった。私はその彼とウマがあった。いま思えば、よくあんなに話すことがあったものだとあきれるけれど、私たちはたとえば、夏休みのような長期休みなら、毎日何時間でも電話で話した。学校がはじまると、放課後は映画を観たり、お茶したり、日が暮れるまで公園で喋ったりした。元気だったんだな。

粗暴で喧嘩が強く、教師も手をつけられなかった彼と、やはり問題が多くて生意気で、教師からは腫れ物扱いだった私を繋いだものは、本だった。

学校には滅多に人が来ない踊り場があった。いつも通りサボっていたら、「自分、何、読んでるん?」と、話しかけられた。関西人は相手に対しても「自分」と言う。二人称(You)としての「自分」だ。馴れ馴れしすぎず、よそよそしくもない。悪くなかった。

意外にも彼はたいへんな本読みだった。意外というのは、彼の暴力性が持つエネルギーと、本を読むという静の営為が最初はどうにも結びつかなかったからだ。いかなる形であれ、校内で耳目を集め、多くの人間と「つるむ」ことがステータスとなるのが学校という閉鎖空間だ。良くも悪くも集団行動の場には同調圧力が生まれるものだから、「一人きりで」「黙って」本を読んでいるような人間は、浮く。

私が踊り場に通ったのは、そこならば干渉されずに本が読めたからだ。クラスメイトと話すことも楽しかったけど、それよりは一人でいることが好きだったし、一人の時間が必要だった。特に学校行事なんかで、「クラス一丸となって」みたいな気運が高まるほど逃げたくなった。

本の貸し借りをするようになり、私たちは親密になった。現代作家をあまり読まないという彼の嗜好は自分(ここは一人称)と似ていた。誕生日が一日違いだったからかもね。踊り場は、本を読みにいく場所から、本の話をしにいく場所になった。世界からの逃げ場であることには変わりなかった。ただ、同じ場所に逃げてくる仲間ができたのだ。私が、いまいち共感できなかった太宰を熱心に読むようになり、その面倒くささを〝正しく〟愛でられるようになったのは彼の影響だろう。彼は私に、違う色で世界を眺めるための新しいフィルターを一枚くれた。

なぜこんなことを突然思い出したか。書店振興なる旗印だ。書店援助はいいけれど、イベントの開催やカフェギャラリーの設置を推奨する「場」としての書店とは。同調圧力から逃げるはずだった場所に新たな「こうあるべき」という国策の同調圧力がピカピカキラキラと待っているとしたら、うんざりだ。

やがて二人のあいだに問題が起きた。向かい合って話すことになった。場所はあべの筋の「スワン」という喫茶店だった。おもてにプリン・ア・ラ・モードやらスパゲティやらの食品模型が飾ってあるような店で、いまも在る。私が映画を撮るなら、この店でヒットマンに拳銃をぶっ放させる。そんなような店だ。

メニューも見ずにアイスコーヒーを頼んだ。白い半袖の制服姿。私たちのシャツは手入れが行き届いて、糊でピンとしていた。あの学校という閉じた空間でいくら特異でも、世間に混じれば、私たちはともに「言うて、ええとこの子」でしかなかった。暑い日だったけれど、ウェイターが運んできたグラスに手をつけるようなムードでは、とてもなかった。

互いのことは誰より分かっている。私たちは互いにそう信じきっていた。たぶん本の話をする仲だったからだ。浮いてしまうようなことーー人と交わることを避けて本を読むという行為を密かな習慣として共有している者どうしだったからだ。後ろ暗いことをしているわけでもなかったけれど、白日のもとに晒すほどのこともない二人の間だけにある理解だった。

だったはずだが、踊り場ではじまった友情は、スワンで壊れた。原因は些細な誤解、第三者のもたらした嘘だった。いま思えば、ちゃんと冷静に説明し合いさえすれば、それだけでよかったのではないか。でも、意地がぶつかり、私たちは共に相手に頭を下げることができなかった。互いに傷ついていて、うまく修復することができなかった。

怒りを抑えこんでいる彼の端正な顔に浮かんだ微笑は、青ざめていた。あの憎悪の微笑を私は忘れない。私だってたぶん、同じ顔をしていたのだろう。ぶーたれた思春期。ブスで嫌になる。

数年たち、実家に電話があった。仲直りしない理由もなかったし、受け入れた。でも、元通りにはならなかった。だから、いまでも太宰の文章を読むたび思い出すのは、十七歳の彼だ。そこで時が止まっている。あれからたくさん読んだのに、そこで止まっている。


文・写真:編集Lily


■ 絵画レッスン交換日記:目を凝らせば、世界は甘美|仙石裕美&編集Lily

■ London Story:画家の生活|仙石裕美



いいなと思ったら応援しよう!