「書く」のは嫌いだが、しばらく書いてみようと思う
リスペクトする思想家で作家の近藤康太郎さんが言った。
「Lilyの本ならおれが書いてやるよ。もう自分のことしか書かないと決めてるけど、一冊だけ特別。おれが書く」
ほんまかいな、ご冗談を。というわけでもないのである。私たちはいつも、仕事と関係ない話ばかりしてきた。近藤さんはなぜかよく私の考えをおもしろがって、そのたび「それ、ちゃんと書いたほうがいいよ。おれが読みたい」と言うのである。さりげない、しかし、もう何年も続いていることだから助言なのだろう。「それはいややな」なんて言い続けていたら、とうとう言われたのが先の言葉だ。
「文章が好きなんですね」と言われることがある。半分だけ合っている。文章を「読む」のは大好きだ。でも、文章を「書く」のは大嫌いだし苦手だからね。便宜上、原稿をリライトせざるを得ないことはあるし、担当本のPRにまつわるテクストを書くこともよくある。でもこれは、私にとって「文章を書く」ということとは違う。すでにある他者の何か(原稿だったり、本の形になっていたり)をさらに整理しているという感覚だ。いちどこの世に出力されている他者というものは本人のなかでいったんは折り合いがついている段階、「整理された思考」である。あくまで主体は他者だ。
「書く」のが嫌いな理由は自覚している。私の処理能力では手に負えないのだ。子どもの頃から「趣味=考えごと」だった。冗談でもなんでもなく、いまだに何か考え始めると、同じ場所に座ったまま十五時間くらい経っている。傍目にはナマケモノより運動量が少ないニンゲンではあるのだが、ただじっとしているわけではない。脳内では大量の言葉が猛スピードで行き交っている。交通量が異常に多いわりに誰も減速せず、好き勝手飛ばしてまくっている乱暴な都市が、頭蓋の内部でめくるめく。
無法地帯であまたの思惑(クルマ)はそれぞれ当て所なく走り続けて、ゴールする必要もない。走らせることが楽しいのであって、ゴールに着くかなんてどうでもいいのだ。私にとって、思考とは過程を楽しむことである。答えを求めていない。そんな調子だから、思惑がどこかの袋小路に入っても気にしない。放っておいたらしばらくしてまた出てきて、メインストリートに戻っているということもあるのだし。
頭のなかを思索が入り乱れている状態が気持ちいいのに、そこにきて「書く」などという行為は、クルマがびゅんびゅん行き交う六車線道路に割って入って交通整理するようなものだ。難儀である。
交通整理では、
走っている複数の思惑を暫定的にいくつかに絞り、道路に乗せる
道路上で好き勝手な方向に走らないよう規制をする
目的地まで迷子にならないよう、標識を立てて道筋をつくる
目的地で見える景色(結論/暫定解)を良きものであるよう願う
といったオペレーションが必要になるけれど、これらの地道な整理整頓作業が、自分の脳内を高速で行き交いまくる交通量と全くフィットしない。途方に暮れるし、時間がかかりすぎる。
そんなわけで、私は「書く」ことを極力したくないのだけれど、かなり無理して、しばらく書いてみようと思っている。理由は二つ。
一つは、親友であり盟友、リスペクトするアーティストである画家の仙石裕美さんに絵を習いはじめたこと。これから二人で見る世界や、考えることを絵だけでなく文字でも残しておきたいと思った。彼女は絵だけでなく、言語能力も優れたひとで、文章がいい(彼女の日記、ぜひ読んでほしい。文章を書くひとは必ずインスパイアされるだろう)。日々、描いたり、創作のなかで考え抜いたりしているから、自分という主体が、ぼんやりすることなく、輪郭を持っている。思想がある。「自分」というものがある。それがいい。
もう一つは、近藤さんが「Lilyの本ならおれが書いてやるよ」と言ったことだ。これを言われるようになったのは、三冊目の仕事が終わってからだ。仕事の枷がなくなって、互いの存在をより無責任におもしろがるようになった私たちは、いま、とてもリラックスしている。長い付き合いで、最も嬉しい言葉の一つだったことは確かだし、だからこそ、そんなことはやめてほしいし言わないでくれ、と思う。私のことなぞ、どうでもいい。私は近藤さんに、一冊でも多く「自分」を書いた本を残してもらいたいのだ。だから私は、「私という自分」を自分でなんとかすることにした。「書く」のは嫌いだが、しばらく書いてみようと思う。
文:編集Lily
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