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3人目も「学校に行きたくない」と言われた日のこと
我が家は3人きょうだいですが、上の二人は学校に通っていません。
1番上の長女は公立高校を中退して通信制の高校に編入、2番目の長男は小学5年生の頃から学校に行くのがしんどくなり、中学生の今は学校に行かないことがデフォルトという状態です。
末っ子は小学生の女の子ですが、彼女は公立の学校に通う日を送っています。
末娘からすると、お姉ちゃんとお兄ちゃんが2人とも学校に行っていないけど、自分だけが平日学校に行っている、となっているわけです。
そんな末娘ですが、週末行事の疲れがたまっていたタイミングで、学校から出ている課題の進行が遅れる→放課後に残って作業をする→思ったより進まなかった→家でも続きをやって時間がかかる→さらに宿題をするのに夜中12時近くまでかかる→寝るのが遅くなる、という負の連鎖が続いた日が週中にありました。翌朝、学校に行く間際に「行きたくない」と目に涙を溜めて言うの娘に対して、私は「じゃあ、今日は学校を休んで気持ちを立て直そう」と提案して休むことにしました。
兄と姉がどちらも朝起きて来ないで、学校に行っていないことをはたで見ていて、末っ子である娘はどんな気持ちでいるんだろうと思います。上の二人について、母親の立場から見えること、感じること、二人が決して楽な状況にいるわけではなく、他の多くの同級生のようにできずにむしろ苦しい状況にあることを伝えていますが、きょうだいとして許容できることもれば、近い存在だからこそ受け入れ難いこともあるだろうなと思います。
母親としては、末娘が学校に行きたくない日に、「じゃあ、今日は学校に行かずに心も体も休めようか」と提案することは正直言ってあまりしたくない、と思っている自分がいます。それは、学校を1日休むことが引き金になって、上の二人と同じように学校に行くことをやめてしまうのではないか、という恐れがあるからです。
無理して行かせることの方がダメージを深くする場合もある、と頭では分かっているのですが、すでに学校に行かなくなった二人の子のこれからの道をどうやって探っていくかを暗中模索しているところに、また一人加わる不安に怯えて末娘にとって何が一番か、ということでの判断ができなくなりそうで、少し暗い気持ちになってしまいます。
末娘は結局、翌朝から気力を取り戻して友達と学校に登校しましたし、帰ってきて今日のエピソードも教えてくれて、ほっと胸をなでおろしました。
ほっとしたのは、娘が回復できたことと、親としての負荷がさらに増えなかったことの両方です。
不登校の問題が苦しいのは、次の道が見つかるまで本当にどこに向かっているのか分からない不安に耐えることだと思います。
もちろん学校に通っていても、その中の悩みや不安はあるのですが、学校に行っていないとなると、公的な支援が一気に減りますし、子どもの日々の生活の心配を24時間親が主体でケアせねばならず、そして未来を見据えてスタンダードなルートとは違う道を探し出す力も必要になり、いちいち立ち止まって考え探し、トライアンドエラーをして、また考え、というふうに時間も量力も大きくかかってしまいます。
どこかにあるかもしれない出口は、きょうだいであっても1つ見つかればそれでOKではなくて、子どもの数だけその子にあった出口を探す必要があると思っています。コツコツと叩き続ける作業は地道で、少し行っては行き詰まってしまうこともしばしばで、まだ1つも出口を見つけられずにいるのに、もう一人分、下手するとさらに一人分探し出さねばいけないとなると、本当にやり切れるだろうか、と言いようもない不安に支配されそうになってしまいます。
そんなときに、この「答えがなかなか出ない今の状態」の中で悶々とするとき、ともすると暗い思考に迷い込んでしまうときに、「ネガティブ・ケイパビリティ」という考えを改めて振り返ってみました。私は箒木蓬生さんの著書を拝読しました。
著書では「ネガティブ・ケイパビリティ」とは
目の前の事象に、拙速に理解の帳尻を合わせず、宙ぶらりんの解決のできない状況を、不思議だと思う気持ちを忘れずに、持ちこたえていく力
と語っています。
「不思議だと思う気持ちを忘れずに」という部分が私は好きです。
そこには眉をひそめて苦しい状態に耐える、というとのとは違う子どものような好奇心や不思議を感じるみずみずしい感性や探究心の気配があります。
すぐに結論を出すことが効率的だ、生産性が高い、という価値観からは距離をとって、ただただ「どうなるんだろう?」「なぜなんだろう?」と思いながらありのままを受け止めていく、ということだと思います。
子どもがどんな状態であるときも、このネガティブ・ケイパビリティという考えを保持して、結論を急がず受け止める力を鍛えたいと思います。それにしても、結構心の筋力が必要だな、と思いますが…
今回ここがコツかもしれないと思った点は、ネガティブに傾きがちな心を立て直すために、小さい子どもがアリの動きや水紋の変化に見入るようなイメージを脳内召喚することかな、と思いました。それが何のためになるのか、とか、生産的であるかどうかとかいうことがつまらないことに思えて、子どものときに感じたゆるやかな時間の流れに自分を沈めることができような気がします。
末娘と学校の関係がどう変化していっても、ときには惑い落ち込みながらも、興味深く、「不思議だと思う気持ち」を持って見守りたいです。