生きていること直結する話ができた(ただモノではない関西のおばちゃん)
近くにあるフリースクールが月1回不登校の親が集まる会を月1回開催しており、私は6月に初めて足を運び、7月も再び訪れた。これからも行きたいと思っている。
なぜか。
そこで私は、子どもが学校に行けなくなってから抱えている不安と心細さを、初めて正直に話すことができたから。
初めて?というのが自分でも意外であり、今までも家族や友人、子どものケアのために仕事を中抜けしたり休んだりする関係もあって職場の上司や同僚に今起きていることを話すことは何度かあった。
そのときの私は無意識に、不登校の子どもを抱えてもちゃんと大丈夫な自分でいることから外れまいという力みというか、緊張は保っていたと思う。
私が大丈夫じゃなかったら、学校に行けない本人もきょうだいも祖父母たちも、もっと不安になってしまい、それが回り回って私自身が崩れてしまうかもしれないことが怖かったのかなと思う。
不登校の親の会では、私は他に何の肩書きも役割もなく、ただただ子どもの不登校に向き合った悩んで不安でいることを素直に吐き出せたように感じる。
親の会に来られている方々は、私のようにここ数年で子どもが学校に行くことができなくなって、支援先・相談先を手探りで探しているママさん(パパさんはひとりおおらず…)だけでなく、すでにお子さんが成人を迎えれれているベテランママさんも多く来られたいた。
場の雰囲気は、私が心配していた重さよそよそしさ、とってつけたような明るさのようなものはなく、かざらずやわらかで、自然と明るいものだった。
特にベテランママさんになると、一見普通の関西のおばちゃんなのだけど、私にかけてくれる言葉は人生の賢者のような深みを持っておられた。その一方で、ご自身のお子さんについては正直に「今こんな状態なんやけど、どうしたらいいんやろう」と率直に惑う母であることを打ち明けて、他の人からの話に素直に耳を傾けていて、そこがまた素晴らしかった。
誰もここでは、自分が大丈夫とか、できる人とか、良い母親であることを演じていないことが居心地の良い場を作り出しているのだなと思った。
家事と仕事をそつなくこなして、子どもを立派に育て上げる母親像に、思った以上に私が縛られていたことも大きな気づきだった。虚勢をはっていたんだな、と。
学校や社会での中で生きていくために、そこにあるルールに自分を合わせられなかったらもうダメで、そこからはみ出てしまった私たちには、隅っこに小さく縮こまってどうにかこうにか生きていくすべを見出すしかない、という不安が少なからず私にはある。 オール1で欠席数ゼロの成績表をもらうときは、特に不安が広がってバランスを崩しそうになる。(こっちは毎日どうにかこうにか生きぬてるのに、1とゼロという数字は残酷で、これは私たちに対するお行儀の良いダメ出しなんだろうか、と怒りさえ湧いてダークフォースの力に包まれてしまうのだ。)
学校も社会も全く悪気なく、うまくルールに合わせられない子どもとその家族を追い詰める。親の会のベテランさんは、腹が立つことも不安になることも否定せず、しかし柳のようなしなやかさで周りの攻撃をさらりと受け流し、自分たちはこうして欲しいのだ、と相手に伝えているのだ。
もちろんストレスだってあるけれど、それもユーモラスに上手に発散させていて、なんと生き上手!と感動したし、心が温まった。
四角四面になりがちな私に人生の達人が贈ってくれた素敵なアドバイス。
「私ってほんまにええお母さんやわって日頃から自分を褒めるんやで。ほんで、家族にも言うねん。『あんたらこんなお母さんでほんまラッキーやし幸せやな〜!』って。」
普段は目の前の仕事に時間もエネルギーも使ってしまっている中で、ああ、久しぶりに生きていることにつながる話をすることができた、と思う。私が求めていたのは、こういうことなんだ、と。
そしてピンチはチャンスというように、子どもが不登校にならなかったら、表面を撫でるようにしてしか過ごさなかっただろうことを考える。深く沈むことは最悪足をとられて戻れないかもしれない怖さがあることは否めない。今だって怖い。でも、そこから別の世界を今少しずつだけど垣間見ようとしている。
マウントを取るためや自分を飾るための虚勢をはらずに、素直に誰かに助けを求めながら、そしてポケットにはユーモアを入れてぼちぼちいきたいな。
目指すはパッと見は普通の関西のおばちゃん、しかしその実、人生の達人になることだ。
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