前十字再建手術からの復帰008‐術後から退院編

「今日は山がよく見えた。赤城山、榛名山や富士山、八ヶ岳も見えてるような気がする。だけど、ひとりだから、合ってるのかな。さすがに、富士山は合ってるだろう。。。」

術後1日目から2日目

手術の翌朝、LINEで様子を聞いたら、痛みで眠れなかったという。痛み止めの点滴を入れると多少いいのだが、点滴の量も決められていて切れるととても痛いらしい。右足の手術の時よりも全然痛いと言っていた。あのマサくんが「やばい、めちゃんこ痛い」と。

そしてこの日、身体から3本の管がとれた。。まずは膝から血を抜く管と背中から入れていた痛み止めの管がはずれた。背中に通していた痛み止めが原因で下半身にしびれが生じていたが、これが抜けることで下半身のしびれも良くなっていくはず。そしてその後、尿管の管も外された。膝の管を抜くときにちらりと膝がみえた。特に内側の腫れがひどく、痛みも強い。右足の時は前十字のみだったが今回は内側側副靭帯も大きく損傷し、大規模なオペをしていて、内側は血液も通っている部分なので痛みも感じやすいのだろう。

術後は血栓ができることを防ぐために弾性ソックスをはき、足首をよく動かすように言われる。が、この時のマサくんは足首を動かすだけで膝に痛みが走る状態でとてもつらそうな様子がLINE越しに伝わってきた。

看護師さんの介助を必要としながら車いすへ移動し、トイレへは車いすで移動する。この時の彼の痛みレベルは10段階中、9~10。そんな中、翌日から本格的なリハビリが始まる。この痛みの中のリハビリを想像すると恐怖心がわいてくるが、わかっていたことだから覚悟を決めるしかない。というマサくん。私は応援することしかできない。

術後2日目からCPMというマシンでのリハビリも開始した。自動で膝が曲げられていくマシンだ。自分で角度調節もできるし、曲げる範囲も決められる。そして毎週、屈曲と伸展の角度の目標も決まっている。だが、痛みをこらえて無理に可動域を出そうとすると再断裂の可能性も捨てきれないし、かといって全く痛くない範囲でやってもリハビリにならない。加減が難しいのと、メンタル的な恐怖心に打ち勝つ必要がある。目標は20度~60度。そしてこの日からPTさんによるリハビリも開始された。

恐れていたことではあるが、この日の画像検査でエコノミークラス症候群が発覚した。小さな下肢血栓ができてしまったため、2週間ほど血栓を溶かすクスリを服用することとなった。

術後の様子

術後3日目。CPMの目標は70度。リハビリのメニューも少しづつ増えてきた。病室でやることが増えて気が紛れていいという。そしてこの日からシャワーが許可された。術後はじめてのシャワー。車いすにのる自分の姿を見て、上半身の筋肉がどんどん落ちていっているのを感じるとマサ君が話していた。

翌日のCPM目標は80度。何もしていないときは常にアイシング。そんな様子でやっと術後1週間。それでも熱感は全然おさまらない。手術で中をだいぶいじってしまっているから炎症は仕方がないし、熱感もなかなかひかないでしょうとのこと。前十字もそうだけど今回は内側側副靭帯の損傷が大きく、メスを入れた範囲も広かったので回復にも時間がかかる。今できることはしっかりアイシングをして、ハイブリットシーネで固定することだけだ。そして術後1週間でCPMは伸展20度、屈曲83度まで進んだ。この日から自動のアイシングの機械がとれてアイスパックに変更になった。

そしてこのころから、可動域が全然すすまなくなってしまった。100度に届かない。リハビリを頑張ってもなかなか可動域が広がてくれないことに悩み始めることになる。そして過重プログラムも遅れていた。術後2週間までは車いす、2週間経過後から1/3過重。これは通常の前十字靭帯再建手術後の過重プログラムよりも1週間遅れをとっている。そのため当初の予定の入院3週間だと退院時に過重1/2しかかけられない状態になる。退院が少し伸びそうだった。

その後も可動域が全く出ずに、退院後も何か月にもわたり可動域を出すことに苦労することになる。それは、内側側副靭帯の損傷によるオペの大きさと、そして何より彼の体質によるものも大きく影響していたように思う。このあたりは個人差が大きいので信頼できるPTさんと時間をかけてリハビリを続けていく事が重要なことと強く感じた。

彼の心境

「最近、あまり変化を感じられない。PTさんは曲がってきてますよと言うけど自分としては実感はない。。。このままだったらどうしよう」

「CPM110度!やっとここまでいった!かなり痛かったけど何とかできた!今日は廊下を松葉づえで歩いてみた。集中して歩いた。早く松葉杖なしで歩きたい。歩けるか不安。」

「CPM111度。1度前進。すごい痛いし引っかかってるけど」

「DONJOYを付ける予定だったのに腫れが引いていないから延長になってしまった。回復が遅いのかもしれない。。。同部屋の人はすでに装具を付け始めているのに。自分は自分。自分に集中しようと思ってるけど、やっぱり焦ってしまう。」

マサくんは入院中に記録をつけていた。そこにはCPMの実績、トレーニングメニューと回数、食事内容、そして感想やコメントまで記載されていた。ネガティブな気持ちに取り込まれそうになりながらも前向きにやるべきことをコツコツと実施している彼の様子が見て取れた。

そのころの私

この時はまさにコロナ渦。家族であっても面会は一切禁止。整形での入院なので差し入れに制限はないが、病院の入り口で看護師さんに受け渡すスタイルだ。そのころの私は幸いにも在宅ワークでだったため比較的、仕事の調整が効いた。私は片道1時間半ほどかかる道のりを運転して、週に2回程差し入れや着替えを渡しに通った。彼が好きなおかずを持って行ったり、ドライフルーツを渡したり。そして病院に行く度に病院から見える山と太陽に勇気をもらっていた。

術後10日ころから、マサくんとのLINEのやり取りはスノーボードの滑りの話が多くなっていた。私はタイミングをみて友人と山に滑りに行ったり、オフとレ施設でジャンプの練習をしたりして、過ごしていた。マサくんが動けないときに自分だけ申し訳ない気持にもなったけれど、私が滑ることを彼も望んでくれていた。そしてその日の感覚や滑りのことを2人で話をする。そんな時間が増えていた。

マサくんの病室からは赤城山が良く見える。あの日から、滑ること、山に登ることはおろか思うように動くこともできていない。早く動きたいという気持ちを抑えながら、赤城山に励まされて1か月半の入院生活を終えることになった。





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