身体の"芸術"を巡る政治性について―「Santa Fe」を例に―

文責:魚の理


 身体の表象ほど政治性を帯びた芸術はない、とは言い過ぎであろうか。政治が隅々に規範を浸透させようと試みる際に、理想の身体像を流布するのは常套手段である。ミシェル・フーコーは、政治が身体の在り方を規定してきたことを次のように定式化している。近世では「主権権力」により命令される抑圧的な「臣民」であったのに対し、近代は「生権力」により規律化される「生命」として、身体は構築されてきたというのだ(藤田 2017: 1)。例えば、イタリアはファシズム期に「筋骨隆々とした古典的肉体美」を政治の表徴として流布したが、現代では「No Anorexia(拒食症はダメ)」に代表される”望ましくない”身体を禁止する政治に切り替わっている。まさに、身体を巡る権力は「理想」から「規律」へとその在り方を変幻させているのである。

 身体の統制から隙間を縫うように、真の"芸術"を追い求める人々。ある意味、宮沢りえの「Santa Fe(サンタフェ)」は身体の政治に挑戦した作品であるかもしれない。当時この写真集が衝撃であったのは、未成年者のヘアヌードという、タブーを侵したことにある。児童ポルノと捉えられかねない写真が載った書籍が何万冊も売れて、その人気ぶりをメディアが頻繁に取り上げる。某公共放送がニュースで取り上げたと言われるほどにも、この異常な盛況が透けて見える。

 ところで、撮影者の篠山紀信が写真集の名前に「サンタフェ」を選んだのには、以下の動機があった(現代ビジネス 2016: 1)。

僕の好きな女性画家のジョージア・オキーフと写真家のアルフレッド・スティーグリッツがサンタフェを拠点にしていて、僕にとってあそこは創作の「聖地」なんだ。りえは、当時まぎれもなく「処女」いわば「聖女」だった。聖女を撮るなら聖地、サンタフェしかないと思ったわけ。

「宮沢りえ『サンタフェ』の衝撃を、いま改めて語り合おう」現代ビジネス 2016年11月25日https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50272

 撮影地を写真芸術の「聖地」に選んだ理由として、被写体の宮沢りえが「聖女」であるからと篠山は述べている。言葉通りに辿っていけば「処女」とは性行為の経験がない女性を意味するのだから、身綺麗を求められる「聖女」になぞらえたと読み取れるだろう。

 ただ、当時の彼女は言わば超人気のアイドル的存在であり、バラエティにも出演していたものの、主戦場は女優やモデルであった。そのような人々には、性の香りが漂わない「清純」が求められる。しかも、彼女はまだ18歳の少女であった。ヌードは幾たびもの撮影を重ねてきた先に日の目を見る一面もあるが、それを芸能界に入って日も浅くない「聖女」が行う。禁断のヴェールをほどいたら、一体どのような世界が現れるのか。篠山が被写体を選んだ理由は分からないが、少なくとも禁忌である「聖女」の実体を露わにした点で、この写真集が生んだ効果は絶大だったのであろう。

 とはいえ、ヌード撮影を望んだのは篠山自身であるから、被写体である宮沢りえにとっては当然躊躇が生まれるはずである。ましてや未成年者であるが故に、周囲から反対されても不思議ではない。

 ところが、興味深いのはヌードを推し進めたのが宮沢りえの母親であったことにある(前掲 2016: 1)。

いくら僕でも18歳の聖女に「はい、じゃあ脱いで」なんて言えるはずがない。だから初日はほぼ着衣のカットだけ。ところが撮影を終えてポラロイドの確認していたとき、りえママがこう言うんだ。「こんなものを撮るためにサンタフェまで来たんじゃないわよ」と。僕が気を遣ってたのに、そんなこと言うなんてすごいよね。それで2日目から馬力をかけてヌードの撮影が始まった。

「宮沢りえ『サンタフェ』の衝撃を、いま改めて語り合おう」現代ビジネス 2016年11月25日https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50272

 では、ヌードを撮られた側である宮沢りえ自身はこの件をどのように考えていたのだろうか。対談相手であるタナカノリユキの「最初から、りえちゃんも脱ぐことを了解していたんですよね。」との質問に対して、篠山は「実はそれが謎なんだよ。最近彼女に聞いたんだけど『私は(脱ぐことを)知らなかった』と言うんだ。」と答えている(前掲 2016: 1)。ただ、撮影が始まると、「こっちが拍子抜けするほどあっさり脱いでくれた」ようである(前掲 2016: 1)。つまり、前代未聞の写真集は、被写体を置き去りにしたまま、作られていったのである。

 「Santa Fe」が出版されてから30年ほど経つが、この写真集は現代においても度々話題になる。しかも国会の議論にも引用されたようである。2009年に児童ポルノ禁止法の法案審議が行われ、18歳に達していない未成年の写真が児童ポルノに該当し、販売の禁止から単純所持の禁止にまで拡大することが議論になった際に、この写真集の被写体の年齢が当時17か18歳か曖昧であったことが問題となったようである。

 本稿で考えたいのは、被写体の意思が顧みられたか否かである。企画段階では篠山と母が相談し、被写体本人には伏せられていた。撮影段階では覚悟の上で撮影に臨んだようであるが、撮影直前まで脱ぐことを知らなかった。写真集の発案から撮影までの間、当人の意思は介在したのだろうか。

 しかも着衣の写真を見て生ぬるいと物申したのはりえの母である。本来は被写体の宮沢りえ本人に時間を尽くして説得し、本人の同意を得てから始めるべきプロジェクトであるが、実際には周囲が当人の意思を十分に確認しないまま進んでしまった。児童の権利に関する条約の第12条には「自身に関係する事柄について自由に意見を主張する権利がある」と記されているが、まさに自身の身体を曝け出す行為がなし崩し的に進んだことは、権利の侵害とすら言えるだろう。

 最近は、暴力やヌードを描写する現場には必ず「インティマシー・コーディネーター」が配置されるらしい。それは単に演じることによる心的外傷を緩和するだけでなく、演じる人間の意思を確認し、監督と俳優双方の合意形成につなげる役割もあるらしい(朝日新聞 2024)。もし「Santa Fe」の現場においてインティマシー・コーディネーターがいたのであれば、この作品は日の目を見ることがあったのであろうか。母親と有名写真家に頼まれた仕事にNoと言えるのであろうか。

 統制から逃れて"芸術"を追い求めた結果、棄損される身体の自己決定権。利害と思惑が交錯する政治と比べて、審美性が焦点化されやすい芸術は純粋と思われやすいが、実際は権力勾配が各所に刻み込まれている。「Santa Fe」は未成年のヌードを撮るタブーに挑戦したという点では画期的であったかもしれない。しかし、そこに被写体の意思はあったのだろうか。篠山が撮ったのは「聖女」ではなく、身体表象を巡る生々しい政治性であったのかもしれない。

参考文献

藤田公二郎,2017,「フーコーの身体概念」『待兼山論叢』51: 1-17.
「宮沢りえ『サンタフェ』の衝撃を、いま改めて語り合おう」現代ビジネス 2016年11月25日
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50272
「宮沢りえヘアヌードで混乱 児童ポルノ法、消化不良で改正」J-CASTニュース 2009年07月03日
https://www.j-cast.com/2009/07/03044678.html?p=all
「俳優守るインティマシーコーディネーター 日本でも養成、安心できる作品をもっと」朝日新聞GLOBE 2024年2月21日
https://globe.asahi.com/article/15125340
「児童の権利に関する条約」全文https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html

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