高校生がめざすべき英語モデルを考えないといけない=学習方法のお話(その13)=
英語モデル設定の課題
私たち日本人が英語を話すことを目標にした場合、その英語のモデルをどのように設定したらよいのかというモデル設定の問題があります。
インプットにおいてもどういう英語をインプットするのか英語モデルを考えるべき問題があるのですが、アウトプットにおいても、古くは小田実氏が提唱されたイングラント、鈴木孝夫氏のイングリック、渡辺武達氏のジャパリッシュなどの英語モデルがあります。
近年、都立高入試にスピーキングテストが導入されましたが、さまざまな問題があり、中止を求める声も少なくないと聞いています。
日本全体の外国語教育の問題解決のためには、日本全体の中高の英語教育の底上げをはかるべきで、その際に、英語教育の目的、そして目指すべき英語モデルを明確にすべきでしょう。こうした問題を明確にせずに、闇雲にやっても成果は上がりません。
「とにもかくにも understandable の文章」をめざそう
「小田実の英語50歩100歩ー自前の英語をどうつくるか」という河合ブックレットから出された異色の本は現在手に入りにくいようですが、とても面白い本です。
英語モデル論というのは、英語教育論の中でも大切なテーマのひとつで、こうしたアウトプットとしてのモデル論に対する提言は、これまでいくつか出されています。小田実氏のイングラントもそのうちの一つであり、先駆けと言えます。
小田実氏の英語教育論は、「何でもみてやろう」という世界を放浪した氏の体験から身につけてきたもので説得力があります。氏の豊富な海外体験と英語体験を通じて、自分の頭で考えた英語教育論になっているからです。
とりわけ、私たちのめざすべきものは、 「日本語、英語双方ともに、英語で言うなら《printable》はおろか《readable》もまず至難で、とにもかくにも《understandable》の文章だ」と、小田実氏が述べていることは重要です。つまりプロのライターや編集者が書くような水準のものは私たち庶民は書けないし、話すこともできないけれども、人と人との意思疎通をはかれる水準のコトバはめざすべきでしょうという小田氏のメッセージと、私は理解しました。
この意味で大谷翔平投手の英語は合格点でしょう。
都立高入試に使われている英語スピーキングテストの母語の影響という評価視点の問題
東京都の公立高校の入試に導入された英語スピーキングテストにはさまざまな問題があり、中止すべきという声も少なくないと聞いています。さまざまな問題点が指摘される中、スピーキング評価の視点のひとつとして、母語の影響という視点を入れていると聞きました。もしそうだとすれば、今日的視点とかなりズレている気がします。母語の影響の多い・少ないをひとつの基準とするということは、時代感覚的に合致している視点なのでしょうか。
スピーキング以前にリスニングをやらないといけません
まずスピーキングテストを都立高入試に入れ込むことの問題になりますが、言語活動学習を課題とする場合、スピーキングの前にまずリスニングをやらないといけないのではないでしょうか。音楽家である小澤征爾さんも強調していたように、演奏家も自分が音を出す前に、他人の音をよく聴かなければなりません。英語学習も、スピーキングの前に、まず「理解可能なインプット」に時間を割くべきと考えます。
アウトプットであれば必要性のあるアウトプットであってほしい
入試という動機づけは残るのかもしれませんが、アウトプットであれば、必要性のあるアウトプットでないとシラケてしまってしんどいアウトプットなどやる気も起こりません。大谷翔平投手にしても、小澤征爾氏にしても、必要性があるからこそ、英語のアウトプットをしているに違いありません。私など、そもそも日本という言語環境で英語のスピーキングがそれほど必要なのかという疑問が脳裏を離れることがなく、今なら、スピーキングよりむしろライティングのほうが重要ではないのか。そう思えてなりません。
そもそも話す力を評価するのは難しくないか
そもそも、話すちからを評価すること自体が難しく、それを公平な選抜をすべき入試に導入すること自体に疑問があります。
たとえ評価するにしても、understandableか否かなど、ざっくりとした生徒を励ます授業中の日常的評価ならまだしも、何点と点数化して、入試点数に加算するなど、金輪際ありえないでしょう。
たとえば、ぺらぺら話すが、内容に乏しい発話。訥々とではあるが、深い内容を話す発話。こうしたまさに人格に深くかかわる、表現力としてのスピーキングを、どのように評価できるのでしょうか。シェイクスピア研究で有名な英文学者・故中野好夫氏は、流暢ではありませんでしたが、深い英語を話したといいます。こうしたことを考えるとき、母語の影響の多い・少ないをひとつの基準として評価することは、時代感覚的に、かなりずれているのではないかと感じてなりません。
発音はもちろん重要です。どうでもよいとは思いません。でも、完璧をめざしても残るのがアクセント(訛り)だとすれば、それがひとつの評価視点となっている点に疑問があります。
まさに地球時代にあって、自律的な人間を育てなくてはならないのに、カッコだけの英語教育になってしまう危険性すらあると感じています。
入試という動機づけはちょっと悲しい
入試という試験による動機づけではなく、いまの時代に見合った、生徒の自主性を尊重する英語教育と英語学習を展望すべきと思います。
日本の英語教育の底上げを果たすためには、理解可能なインプットと必要性のあるアウトプットをいかにカリキュラム化するのかが重要な課題であって、スピーキングテストを入試に入れ込むことではないと感じます。