文化講座『日本史講座』 講師:山内譲
こんにちは。note更新担当のたぬ子です!
平成20年度から開講している当財団の人気事業!それが『文化講座』です!
この講座は、愛媛県県民文化会館に外部講師を招き、文学や歴史などに興味・関心のある方々に向けて、学びの場を提供しています。
また、当財団ならではの専門性の高い講座や地域の歴史・特性を生かした講座となっています。
今年度の『文化講座』は、対面講座:4講座+オンライン講座:2講座の合計6講座を開講しており、それぞれの講師にお話を伺っていきます!
赴任地で出会った研究テーマ
―先生のご専門は中世瀬戸内海地域史ですが、どうして専門にしようと思われたんですか。
ちょっと専門的なことになるんだけど、荘園って知ってるかな。
荘園っていうのは、京都の大きな寺社や貴族が地方に持っている領地のことなんだけど、私が高校の教員として最初に赴任した弓削島もその荘園だったわけ。
弓削島荘って言って、京都の東寺というお寺の荘園で、正確には東寺領弓削島荘と言うんだけど、これは大学で日本史を勉強した人なら知らない人がいないぐらい中世史研究の世界では有名なんよ。
でも、地元の人は全然知らなかったんだよね。それで、せめて生徒には地域のことをちゃんと知っていてほしいと思って、勉強し始めたのがきっかけかな。
そうして荘園の研究をしてると、荘園に関わって海賊が出てくるから、「ああ、これは海賊の研究もせないかんな」と思って、荘園から海賊へ研究対象が移行していったわけ。
村上氏は水軍ではなく、海賊である!
ーでは、先生がライフワークとして研究されている村上水軍は、広島県と愛媛県どちらにゆかりがありますか。
当時の村上海賊は、伊予国と備後国にまたがって活動していたけど、彼らにとっては県境なんて関係なかったんだよね。
だから、広島県と愛媛県どっちかだけにゆかりがあるとかはないね。
―そうなんですね。
ただ、因島に因島水軍城ってあるんだけど、最近では村上氏のことを水軍とは言わない。
―なんて言うんですか。
海賊。村上海賊と言っています。
今までいろんな所へ講演に行って、「海賊が正しい!」って言ってきたんだよ。最初は、ちょっと抵抗があったみたいだけど、今ではだいたい海賊で定着してきたかな。
―水軍と海賊ってどう違うんですか。
実態は同じだけど”水軍”という言葉は、あとになって研究の過程で作り出された言葉で、当時はなかったのよね。
当時の資料に、”海賊”という言葉は出てくるけど、”水軍”なんて言葉は出てこないんですよ。
だけど水軍の方がかっこいいから、みんな村上水軍って言ってきたんだよね。
でも村上氏は、さまざまな活動のなかで蓄えてきた力を使って、毛利氏など戦国大名の水軍として活動することもあっただけで、村上氏自身が水軍というわけではないんだよ。
だから、村上水軍と言うんじゃなくて、「村上氏は戦国大名の水軍として活動した」と言った方が正しいわけ。
私は、ずっといろんなところで「村上水軍という言い方は、適切ではない!」って言い続けているんだよ(笑)
ここで大事なのはね、”海賊”という言葉が今は悪者という意味に捉えられるけど、当時はもっと別のいろんな意味がある言葉だったということ。
村上氏は海賊だけど、今でいうパイレーツのような存在とは違うんですよと、日本の海賊はパイレーツではない!と強く言ってるんよ。
―では、日本の海賊はどんな海賊だったんですか。
村上海賊でいえば、戦国大名の水軍として戦う人もいるし、逆に船で行き来する人をガードする人もいたの。それから、もちろん”賊”という言葉のとおりに、瀬戸内海を行き来する船を襲うような人もいたね。
だけど海賊からしたら、自分たちのテリトリー・領域を通るんだから、通行料を取るのは当然だと思うわけですよ。取られる方からすると、略奪だって思うわけだけどね。
まあ海賊の1番大事な活動は、いろんな所に拠点を置いて通行する人から通行料を取るということかな。そこから、さっき話した水軍として戦う人や船をガードする人が出てくるからね。
日本史の大きな流れと愛媛の暮らし
―日本史講座の特徴はどこですか。
日本史の大きな流れと地域史の流れをドッキングさせるのが、日本史講座の特徴だね。
私が地域の歴史を研究しているから、日本史の大きな流れだけじゃなくて、その時代に愛媛県の人たちはどんな生き方をして、どういう風に日本の歴史に関わったのかっていう話をするんよ。
そして、常に歴史は研究によって変わっていくので、講義ではできるだけ新しい研究の成果をお話しするようにしているね。
―歴史って変わっていくんですか!?
研究がどんどん進んで、大きなことから細かいことまでいっぱい変わった。まあ研究する人は、今まで広く知られてきた通説の間違いを見つけ出すのが楽しみなんやから(笑)
通説がいかに間違っているかということを見つけるのが、研究者冥利に尽きるんだよね。
大事なのは、学生時代の歴史との接し方
―日本史と出会ったきっかけはなんでしたか。
1つは、子どもの時に歴史に関するマンガや本を読んで「歴史っていうのは面白いなあ」って思ったからかな。
けど1番大きなきっかけは、高校の先生が「歴史は暗記だ!」っていう人ではなくって、歴史の面白さを授業で伝えてくれたからだね。
その先生のおかげで、「歴史っていうのは面白いなあ」と思ったところがあって、大学で歴史を勉強してみようか!ってなったんよ。
―どうして世界史ではなく日本史を選ばれたんですか。
日本史の方がちょっと身近だったかなあというぐらいで、当時は世界史も日本史も両方ともおもしろかった。
まあ、あんまり英語が得意でなかったというのがあるかもしれん(笑)
世界史へ進んで研究したり勉強するようになると、各国の言語も勉強しないといけないのよ。
でも日本史だと、日本語だから改めて言語を勉強する必要がなくて簡単だろうと思ったんだよね。
まあ、それは大間違いで実際は古文書っていう古い書物を読まないといけない。
これが本当に難しくて、日本史の方が楽だなあと思って選択したのは、間違いだったかもなって、あとで思ったね(笑)
でも私はね、日本史と世界史というのは分けられるものじゃないと思うんだよ。
日本の歴史は世界の歴史の一部だから、日本の古い歴史を研究する時には中国や朝鮮半島の歴史を勉強しとかないけんし、新しい歴史なら、ヨーロッパやアメリカの歴史も知らないといけない。だから、日本史と世界史は別ものではないんだよね。
日本史と共に…
―先生にとって日本史とは、どのような存在ですか。
ように考えてみたら、”日本史は私の人生でいつも傍らにあったもの”だね。
子どもの時は勉強する対象で、教員になってからは生徒や学生に教える教材としての日本史になってね。もちろん、研究の対象としての日本史もある。
それぞれ関わり方は違ったけど、私の人生のどこを切り取っても傍にあるものだったかなあと感じるね。
まあ、日本史と共に歩いてきたということかな。
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