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「日本スゴイ」から感じる、いかに「闘いを遊べるか」の大切さ

スポーツでは軍隊をルーツにした用語が多く使われるので、対戦相手のことを「敵」と表現することが多い。特にプロスポーツの場合は「敵」との対戦を煽ることで興味を掻き立て盛り上げる。

何と比べて「日本スゴイ」なのか?

楽しかったラグビーワールドカップは決勝戦の前から流れが変わった。日テレの作りが過剰に「日本スゴイ」の自画自賛になってきた。スポーツの国際大会で選手・関係者が開催国の人々に「ありがとう」と、感謝のコメントをするのは当たり前だ。別に日本が「スゴイ」わけではない。ラグビー日本代表選手たちは日本代表チームや日本代表チームを応援する人々のために献身的にプレーしている。別に日本という国家や国民のためにプレーしているのではない。「具選手は日本のために戦ってくれている」という表現は正しくないはずだ。しかし、スポーツを通して「日本スゴイ」の快感に酔いしれる視聴者が多く「日本スゴイ」がメディアに氾濫する。

ラグビーワールドカップの終盤で改めて感じたことは「スポーツを楽しむよりも『日本という国家や日本文化が他と比べてスゴイ』『日本という国家のために選手が尽くす』という共感の輪を広げることを優先したい人が世の中にはたくさんいるということだ。

この世界はスポーツがあるから平和が維持されている。

人が「敵」との勝ち負けを付けたがるのは動物的な本能だろう。その最も大きな勝ち負けの付け方が戦争だ。だから、人が不幸にならない方法で勝ち負けをつけて本能を満足させなければならない。そこで「敵」との各種争い事や戦争の代わりに登場するのがスポーツだ。動物行動学者のデスモンド・モリスは「サッカー人間学(The Soccer Tribe=サッカー部族=)」で「サッカーが狩猟の欲求を満足させる」という考えで各種分析を行っている。

「共産主義、資本主義、先進国、途上国、黒人、白人、黄色人種。ぐっちゃぐちゃに混ざりあってさ。純粋にスポーツだけで勝負するんだ。」これはNHK大河ドラマ「いだてん」のセリフだ。

サッカーに限らず勝つことは楽しい。

しかし、それゆえに、逆に、スポーツを愛する者は翻弄されてきた。「敵」を討ちたい、狩りたい、勝ちたい、という別の強い目的を持つ者にスポーツの熱狂は利用され続けてきたのだ。

スポーツはスポーツを愛する者のためにある。権力者や権力者に寄り添う者のためにあるわけではない。

「スポーツを政治利用させてはいけない」というのは、「スポーツを政治利用してきた歴史および、政治利用している現実」があるゆえの、スポーツを愛するものが発する悲痛な叫びなのです。歴史でいえば、1936年のナチスドイツによるベルリン五輪であり、1978年の軍事独裁政権によるアルゼンチンW杯であり、最近で言えばベルルスコーニだったわけです。スポーツは熱狂と切り離せません。利用されたスポーツの成績が良ければ、その大会が盛り上がれば、そのスポーツ/スポーツ大会をバックアップした政権、政治勢力が正しい、という勢いを増長しやすいのです。 (2006年 仁さん

例えば、Jリーグでも、こんな事件があった。覚えているだろうか。

そして、近隣の国や特定の民族を蔑むことを露呈が背景にある「JAPANESE ONLY(日本人のみ入場可)」事件も。

スポーツの語源は「遊び」。どれだけ「闘いを遊べるか」がサポーターの面白さであり力量といえる。

日々の生活から離れること、すなわち、気晴らしをする、休養する、楽しむ、遊ぶ・・・それがスポーツの語源となったラテン語の「deportare」の意味とされている。対戦相手としての「敵」との闘いは人が勝ち負けを付けたがる動物的な本能を対戦相手双方が暗黙の元に了解した「遊び」だ。その遊びを最大限に楽しめば、スポーツはもっと面白くなる。スポーツは「遊び」でありつづける。

スポーツは、スポーツを愛する者のための「遊び」だ。悪用する人々に渡したくない。

ただし、残念なことに、先に書いたように、この「遊び」を悪用する人は次々に現れる。すると誰かが直面しなければならないスポーツを脅かす「敵」との闘いが生じる。そんな真剣な闘いは、面白くもなく面倒でしかない。真っ平御免だ。スポーツは、スポーツを愛する者のためになければならない。スポーツを愛する者がスポーツを誰にも渡さないようにギュッと抱きしめ続けるのだ。

スポーツを愛する者は、もっとスポーツを愛して世界中で遊ぼうではないか。




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