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野火を読みました
たとえばの話です!
マクドナルドでチーズバーガーセットを頼んだとします。
ドリンクはコーラ、
サイドはポテトかナゲットかすごく迷ったけど
ポテトにしました。
テイクアウトして家に持ち帰り袋を開けると、
頼んでいないナゲットも入っていました。
マックじゃなくて雑貨とか日用品とかなんでもでもいいんですが。そういうことって経験あると思います。
返しに行こうかという気も頭によぎるけど
今更戻るのもどうかと思い、
-仕方ないから-ナゲットも食べますよね?笑
返しますか?笑
落とし物をくすねた時のように
ほんの少しだけ罪の意識をもって食べたとします。
この時によくよく自分の心の内に目を向けると、
ナゲットを
-仕方ないから-食べたのか、、、
-食べたかったから-食べたのか、、、
本当はナゲットを-食べたかった-
と感じていたから食べたのかもしれないと思いました。
仕方ないからさ〜ってすかして食べて
本当は食べたかったから美味しくてにやけそうになるけど
「本当は食べたかったんじゃーん」てツッコミいれられちゃうからあんまりおいしい顔しないでおこう。みたいなことってありますよね。笑
なにが言いたいかと言うと
-仕方ないから道徳に反して食べる-
-食べたいという欲求をもって食べる-
この二つには別の種類の罪があるなぁと
感じたということです。
お金を払わず食べたっていうずるさ
食べたいことを偽って食べたっていうずるさ
どっちのずるさが嫌でしょうか
そんなことを考えてしまう本の話です!!
(本の話かーい)
野火というすごく有名な小説を読んで、
感じたことをわかりやすくしたいっと思って
ナゲットの例え話にしたんですが逆にわかりにくかったらすみませんです笑
この本の面白いと感じたところは
主人公の田村一等兵は、
フィリピン島での戦時中、
食糧がなく飢餓に苦しむ中で人間の肉を食べました。
たしかに食べたのに最後まで食べていないと言い張るんですね。
すごーく簡単に言うと、
ナゲットを食べたくて食べたんじゃなく、
仕方がなく食べたから食べたことにはならない!!と
少しやべーやつ発言をしているわけです。
なぜなのか、、
実際にこの本の最後の章は
-狂人日記-というタイトルになっていて、
主人公が戦地の体験を振り返る形になっています。
敗戦間近、ボロボロになってさまよい
緊急事態で異常自体のサバイバル状態。
おそらく仕方なく人肉を食べたと言っても
-それはしょうがない状況-と当事者同士では
黙認されていたと思います。
この田村一等兵以外の軍人も人肉を食べていました。
それでもかたくなに食べていないと主張するんです。
-食べたい-と思って食べるということに異常なほど罪を感じています。
小説のあらすじには
主人公の田村一等兵は
-なぜ人肉嗜食に踏み切れなかったのか-を
たどる作品とありますが、
-なぜ人肉嗜食をしていないと言い張るのか-
と捉えても面白いかもしれないと思いました。
それがなぜなのか、すっごく難しくて
2週間くらいずっと同じ本を読んでいました。
それを考えるのもすごく楽しい時間でした!
(暇人と言わないで)
高校生の時に読んだ時は入り込めなかった本ですが、
再読してみると、美しい情景描写と戦争という舞台に放り出された人達の壮絶な描写が映像化されるように心に写りました。
実際に映画化もされているので
字を読むのが苦手な方は映画を見るのもいいかもです!
1954年発売のこの小説。
読んだ後、食と精神性には
普遍的な関わりがあるんだなぁと思い、
ヴィーガンについて調べ始めた2025年です
(暇人と言わないで)
ちなみに、もし人肉を食べるとしたら
どこを食べますか?
僕は、ほっぺたか首がいいかな〜
心に残った一節
——
死ぬまでの時間を、思うままに過すことが出来るという、
無意味な自由だけが私の所有であった。
携行した一個の手榴弾により、死もまた私の自由な選択の範囲に入っていたが、
私はただその時を延期していた。
——
最後までお読みいただきありがとうございました!
#野火