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「不可能なもの」の映画ーー『NOPE』覚え書

『NOPE』は不可能なものの映画である。NOPE=Noである。impossibleと置き換えても良い。では何が不可能なのか? 物語的(プロット的)には、Gジャンと名付けられた得体の知れない超常的な存在を撮影することが、不可能なミッションだ。因縁あるものたちが集まり計画し、不可能なプロジェクトに挑むクライマックスは、可能と不可能の境界ギリギリを攻める挑戦であり、見ていて楽しい。

物語的な水準だけではない、さまざまな象徴と隠喩に満ちた「不可能なもの」が映画に溢れている。そういう作りになっている。そもそも、この映画は「映画についての映画」である。映画産業ハリウッドに撮影用の馬を用意する牧場。唯一の黒人牧場主OJ。「空から降ってきたコインが頭に突き刺さって死んだ」(不可能!)な父親の後を継ぎ、経営をするも、うまく行かず。馬を売り払っては、なんとか資金を捻出している。

ハリウッドとは、何もないところ(自然)から作り上げられた街。そこでは、何もないところから映画を作る。映画は「そこにあるもの」を撮影するから、「何もないところから映画?」と思うかもしれないが、そんなことはない。もちろん、役者もセットもロケーション(自然)も現実に存在している、物理的な対応物であるが、かといって出来上がった映画は、物理的な対応物かというとそうではない。さまざまなものが、見えるようにされたり、見えなくされたりする。グリーンバックに立たされる馬。VFXで背景が合成=見えるようにされる。映像技術的な話だけではない。OJの妹エメラルドが安全講習の口上で述べたように、映画産業としてのハリウッドには、昔から黒人が関わってきた。にも関わらず、黒人の存在は消されてきた。「何もないところ」から生じたハリウッドは、映画というメディアを使い自由自在に見えるように/見えないように、してきた。映画とは、見える/見えないを技術的=アート的に調整することで成立すつ「不可能なもの」についての/であるメディアと言える。

映画が自然を自然として映すこと。簡単なように思えるが、不可能なことでもある。映画は自然を切り取る。自然なものとして人工的に映画できりとれば、それは不自然になる。だから映画の中での自然は「自然らしさ」という構築性と無関係ではあり得ない。『NOPE』では、自然の代理/表象として動物のキャストが位置付けられる。OJが育て、スタジオに連れて行った馬、がまずはそうだ。「飼い慣らす」がキーワードで、何度も用いられる。

OJの牧場の近くに作られた西部劇テーマパークの経営者、ジュープは、「飼い慣らす」ことに失敗したトラウマを持つ。彼は人気シットコムの元子役。シットコムにはチンパンジー(ゴーディ)が出演していた。撮影中、このゴーディが突然、凶暴になり出演者を攻撃、死傷させるのだ。番組は打ち切り。以来、映画産業では「サルは撮影には使わない」(OJ談)。子供のジュープが、暴れた後のゴーディとコミュニケーションをとる直前に、ゴーディは射殺される。動物(自然)を飼い慣らす機会を喪失した。大人になったジュープは、西部劇(自然の開拓)をテーマとしたパークを経営。宇宙人とのコンタクト劇を用意する。そこで彼と家族が飼い慣らそうとしたのが、そのあたりの空に、雲に隠れて滞空しているGジャンだった(と思われる)。ジュープが、どこまでGジャンの存在を理解していたか、飼い慣らす可能性を信じていたかは不明瞭だが、子役時代のトラウマ克服、自然の再征服劇を用意したと読める。シットコムで共演していた子役の少女で、コーディの暴力により負傷し障害者となった彼女も、その場にいたのは象徴的であろう。(彼女の顔は隠されている=見えないものにされている。)

「自然」も「動物」もかっこ付きでしか登場しないし、登場できない。自然/文化という二項対立は、ハリウッドにおいては最初から脱構築されている。ハリウッドの自然は「再発明された自然」(ダナ・ハラウェイ)だ。Gジャンは最初、カウボーイハットとしか見えない形態で登場する。UFOと見せかけてからのカウボーイハットなので、アリといえばアリかも。とはいえ、舞台はアメリカの広大な西部の自然、その空に巨大なカウボーイハットがびゅんびゅんと、なんともな映像体験である。(超)自然の飼いならせない化け物が巨大なカウボーイハット。

さらにGジャンは形態変化する。第二形態は、中央部に開いた四角い空間(口?)と、それを取り巻くように展開するひらひらの布状のものに分かれる。カメラレンズと冠布っぽいデザイン。まんま? 超自然的カメラのお化けと、Gジャンの勢力圏内では電子機器がいっさい使えないため、ローテクカメラとの「撮影」合戦。カメラvsカメラがクライマックス。このカメラバトルは、人間側から見れば、Gジャンという超自然のお化けを撮影することでかっこ付き「自然」へと飼い慣らすことを目指す。実際、エメラルドが撮った写真は、観光客用の写真機によるものだ。観光地で売られる商品としての「自然」。他方、Gジャンからしてみれば、人間(文明)を単なる食べ物という自然へと還元する、きわめて即物的=自然的な営みである。自然/文化の二項対立を軸に、Gジャンvs人間たちの戦いが繰り広げられる。

カメラのお化けたるGジャンに挑む人間たちがハイテクカメラを使わなかった(使えなかった)のは、抽出したカメラの本質をぶつけたかったからだろう。カメラももちろんテクノロジー(技術)なのだが、限界ギリギリまでプリミティブに退行させることで、「そもそもカメラとはなんなのだ?」を前傾化したのだ。

と、この映画を「映画についての映画」と見ると、いろいろと考えられる作りになっている。という点で面白い映画であるのは確かなのだが、あまり「映画についての映画」というメタにこだわりすぎるのも、もったいないかもしれない。単純に、西部の空に巨大なカウボーイハット型の「何か」がいて、たまに人間を食べている、という実にアホらしい・馬鹿げた、「不可能なもの」についての映画だといって観るだけでも、十分に面白い。


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