知的自律性の獲得を目指して――山田圭一『フェイクニュースを哲学する』岩波新書
「フェイクニュースとは何か?」を議論している本である。が、それ以上に、「情報の正しさはどのように決まるのか」「誰からどのような媒体で情報を得るのか」といった、筆者のいうところの「知的自律性」をめぐる議論(筆者の主張や、哲学者の主張の紹介)が中心である。これが、サブタイトルの「何を信じるべきか」だ。
まず、フェイクニュースとは何だろう。「偽の情報」というだけではない。もう少し込み入っている。フェイクニュースのフェイクには二つの側面、「真実性の欠如」と「正直さの欠如」がある。真実性の欠如は「嘘」と「ミスリード」(間違ってはいないが誤解を招く)の程度があり、「正直さの欠如」は「欺くことを意図」(嘘だと知りつつ、相手をだます)と「でたらめ」(真偽への無関心)がある。このように、フェイクニュースの幅(解像度)をあげる。現代では、あれもこれもフェイクニュースと言われ、何なら相手を「嘘つき」と非難する言葉としてフェイクニュースが使われている。
と、その上で、筆者は「他人」「うわさ」「専門家」「マスメディア」「陰謀論」をとりあげ、それぞれ「信じてよいのか?」と問う。私たちは否応なく他人の言葉を信じざるを得ない。他人の言葉を信じるには、何が必要なのだろう。その人が誰かがその人を信じる根拠になる。もう少し腑分けすると、「今までどのような発言をしてきたか」(一致条件)、「その人の利害関心はどのようなものがあるのか」(誠実性条件)、「その人にその発言をする能力はあるのか」(能力条件)の3つに分けられる。これらの要素を複合的に(そして時に瞬時に)私たちは考慮して、信じる/信じないの判断をしていく。
「うわさ」や「専門家」においても基本的には同様である。「うわさ」も、多くの人の間を通った噂は、噂だから信用できないという態度も一方であるが、多くの人の判断(フィルター)を通過してきた噂だからそれなりの正確さかもしれない。うさわはそれを広める人の「事前知識」「人間同士の関係性」「うわさの伝え方」や「異なる情報源」が関係する。
専門家と非専門家(一般人)のあいだには断絶がある、と指摘される(専門知についての困難)。一般人は専門家と前提が共有できず、論証を評価できず、反証になじみがない。しかし、それでも私たち一般人はある場面において専門家の発言を信じる。では、どのような場面だろうか。専門家も他人と同じく一致条件、誠実性条件、能力条件が必要である。さらに、専門家の場合は、「他の専門家からの同意」(査読制度)も重要となる。専門家と非専門家のあいだに断絶があっても、専門家同士のやりとりが非専門家(一般人)にどう見えるかで、非専門家も「どの専門家が信じられるか」はわかる。(専門家の意見が絶対、という意味ではなく、相対的に確からしい、という判断。)
「他人」「うわさ」「専門家」の発言を信じるかどうかは自分で考えることを「知的自律性」と筆者は呼ぶが、これは「マスメディア」の情報を受け取るときにも同様に求められる。インターネットの情報の場合、「他人」「うわさ」「専門家」「マスメディア」で想定される「人格」と異なる。「行為者が不透明」「断定」「情報源の同一性(同じ情報が異なる経路で流れてくる)」「文脈の崩壊」などネット特有の事情が、情報をゆがめる。ネットのうわさは、永続的であり、かつ拡散範囲の予測も不可能である。
「陰謀論」について、「不合理な推論を信じることを陰謀論」と定義すると、「陰謀論は不合理だから不合理だ」と論点先取になる。陰謀論(conspiracy theory)は理論(theory)であり、「まだ証明されていない仮説」と考える立場もとれる。実際「アメリカの情報機関が国民の電話を盗聴していた」こともある。ただし、陰謀論に特有の思考パターンがあり、むしろこちらが問題だろう。「単純な因果関係」「論理の飛躍」「結果からの逆行」「挙証責任の転嫁」が呉座勇一の考える陰謀論の特徴である。
あるいは「答えられない問い」「現れているものは何もない」「すべてはコントロール下」「すべては悪しきもの」「異常なものをさがす」「どちらの目が出ても勝ち」(ブラザートン)という態度が陰謀論者の特徴とされる。陰謀論は「論」なので反証可能、すなわち科学的な装いなのだが、「大事な証拠は隠されている」という態度をとる限り、実は反証不可能なのだ。
本書を通してみると、何より大事なのが「知的自律性」である。一人の自律した個人として、情報の正しさを判断する。情報は誰か(何か)を媒介して伝わるわけで、その誰か(何か)と自分はどのような関係にあるのか、自分と媒介者の距離を検証しながら、情報の正しさを判断する。知的に自律するにはどうしたらよいか? これが、21世紀の情報化社会(メディア環境が変化した社会)で私たちが考えるべき姿勢(道徳、といっていいかもしれない)である。
とはいえ…。VUCAの時代(不安定な時代)に、事実ベースの「なぜ理解」ではなく、感情ベースの「納得」が求められる/を求めてしまう気持ちもわかる。陰謀論は、事実の提示ではなく、感情的な納得をもたらすものだ。難しい。