20年後に「負け犬」の声を聞く――酒井順子『負け犬の遠吠え』(講談社)

筆者は、30代・未婚・子供がいない女性のことを「負け犬」と定義する。むろん筆者も「負け犬」にカテゴライズされる。勝ち負けとは何かといえば、「女性としての生き方」の勝ち負けである。カッコ付で書いた「女性としての生き方」は多様になりつつあるが、裏を返せば本筋は一本、結婚―出産―子育ての線が(どんなに薄くなろうとも)通っている。ことあるごとに意識的・無意識的な勝ち―負けのマウンティングにさらされる筆者ふくむ「負け犬」は、だったら最初から負けをみとめて、お腹をごろんと仰向けにひっくり返った方が、いっそ楽になるだろう。本書は、「負け犬」と自己規定する宣言書である。しかし、単なる敗北宣言ではなく、「負け犬」には「負け犬」の生き方、哲学・美学があり、自分たちの向いていること・向いていないことを受け入れる、自己肯定の本でもある。

2003年の本だ。私が20歳くらいのころ。当時、社会現象になるほど話題になったもので、なんで今さら読んだかと言うと、『非モテ!』で言及されていたからだ。本書への批判も多い。一番は、「負け犬というが負けていない」というもの。酒井順子自身のキャリアもエリートであるし、「負け犬」とされる人たちは、バリキャリ(死語?)である。なぜ30代・独身・子供いない生活をしているかというと、それが「できる」から、というのも大きな理由だろう。背景にあるのは女性の社会進出(経済力の獲得)である。さらに、古い家族観から切断され、都市部で「自由な」一人暮らしを楽しめる。「負け犬」が(伝統)文化の担い手である、とすら酒井は言う。その通りであろう。階級を考えなければ。20年前の本書の日本は、今よりもまだ豊か(余裕があった)のかもしれない。繰り返すが当時も「負け犬は負けていない」批判はあったが、そもそも2020年代の今なら、このような本自体が書けない・出ない、のでは?(検閲という意味ではなく、読者の共感が得られない、という意味で。)少子化は進んでいるが少し改善の兆しが見える、なんて記述もあったので、まだ何とかなる、と思えたのかも。(2003年の出生数、合計特殊出生率は1,123,610人、1.29)

「子育ての宗教化」という指摘。「負け犬と依存症」の依存はいまなら「推し活」。「オスの負け犬」にいるオタ夫(など)は「草食系男子」。などなど、今に続くトピックを的確にえぐりだす筆致はすごい。文章がとにかく面白いので「負け犬」について語りながら、「負け犬」以外の人にも「別の生き方」への共感を引き起こす。

相手に求めるもの、結婚するうえでの価値観が多様化し、男女間でのすりあわせが難しくなった(かつては女性の「意見」は家という制度によって抑圧されていたわけだが)結果、非婚化が進み、日本では出産・子育てははほぼほぼ結婚を前提にしているので、少子化も進んでいく。という2003年の現状は2024年でも変わらず、より一層、進んでいる。「負け犬」の星として掲げられた紀宮(サーヤ)は結婚したが、老後に「負け犬」共同生活を営もうと話していた筆者の友人・鷺沢萠は亡くなってしまった。

これは本書とは少し離れるが、個人の価値観やアイデンティティが多様化していく中で、多様なものの「ある要素」と折り合いがつかないとなったら、その人間全体との折り合いが付けられない、という現象が進行しているのではないか、と思っている。相手の多様性の解像度をあげていけばいくほど、相手とのコミュニケーションが成立しにくくなるというパラドックス。尊重しようと思えば思うほど、断絶になっていないだろうか。しかし、いったい、どうしたらよいのだろう。


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