消費でもなく搾取でもなく--田中東子『オタク文化とフェミニズム』(青土社)
主として女性のオタクがする推し活(ファンになっているアイドルなどを熱心に応援する活動)について多角的な分析をしている評論が収録されている。「多角的」とは、消費と労働といった経済的な側面だけではなく、思想・哲学的な側面もあり、さらに特筆するべきは筆者の個人的な側面もある。筆者は、学校の友人たちと同人誌を作ったり、2.5次元ミュージカルの俳優を推したりと、オタク活動歴は長い。筆者が、年をとることで、消費者から生産者、そして労働者へと社会的な立場を変えていくと、推しへの見方も、複雑なものになっていく。推しの俳優が長時間の身体的・感情的労働に従事しているのを見て、推す気持ちにためらいというか迷いが生じたと言っていたのが印象的だ。
理論的に整理をすると、スペクタクルの社会である現代では、情動に関わる労働が社会・経済の中心になってきている。そこでは、身体・頭脳を基本にさらに感情(情動)を消費者へ供給することが、労働者に要求される。アイドル業界はグローバル化とグループの大人数化が進み、ファンによる推し(押し)を前提としたプロモーションが計画される。女性のファン活動は、「女性だから」ということでスティグマをおされながら、女性同士の自律した連帯ができる両義性がある。男性が独占していた「見る視線」は、女性の社会・経済的な地位の上昇にともない女性もまた「見る視線」を獲得し、イケメン・〇〇王子・男性アイドルをまなざすようになった。ここにも両義性がある。女性が男性アイドルを「性的に消費」するようになったともいえるし、女性がアイドル産業によって「労働力を搾取」されているともいえる。しかし、この消費か搾取かどちらか、という発想は貧困ではないか、と筆者は問う。それは男性ファンと女性アイドルとの推す-推される関係を、「女性アイドルの消費」でもなく「アイドル産業による搾取」でもない言葉で表現したくないだろうか、と筆者が男性にも問うている。
そういえば以前、大学サークルの友達が、20年以上前に作った同人誌を今読み直してみると、クオリティが低くてびっくりした、と言っていた。クオリティが低くてダメ、というのではなく、クオリティ関係なく楽しく作れていた環境だった、という意味で。その同人誌は大学の学園祭やコミケで販売し、100~200部くらいしか作らないので、売り切ったら終わり、である。当時、ブログ文化はあったのでネットにアップすることもできたけれど、ネットにアップすることはなく、あんまり流通しないものを、一生懸命、楽しみながら作っていた。こういう空間がもう失われてしまったと嘆くのではなく、この時代になってもどうにか作れないものか、と思う。筆者のオタク活動ヒストリーを読んでいて、自分のことを思い出した次第。