尊厳は給付できない――柞刈湯葉『未来職安』(双葉社)

社会の自動化が飛躍的に進み、人口の99%が消費者に、残りの1%が生産者になった未来社会。人間のやる仕事や、仕事を求める人ですら珍しいもの(ふつうではないもの)された社会で、職安(職業安定所、就労希望者に仕事を斡旋する場所)を舞台に、上司の大塚と部下の目黒(と所長の猫)が、「人間にとって働くとは何か?」を考える話。連作短編集。

大多数の人は、生活基本金(いわゆるベーシックインカム)をもらって生活している。個人に支給されるが、額は微妙に少なく設定されているので、家族単位で生活する(させる)ねらいがあるようだ。もっといえば、家族単位で生活し、子供を産み育てることも期待しているようだ。子供が増えれば家族の生活基本金は増えるので。学校もほぼ自動化され、道路には自動運転車が走り、空には自動配達ドローンが飛んでいる。店も有人が無人かでグレードが別れているし、消費者と生産者は好む服装がことなるため、外見から所属階級と、収入(使えるお金)を判断できる。なんとなく使えるお金が多い生産者のことをうらやましく思いつつ、大多数の消費者は自分の生活に満足している。生産者は社会の1%しかいないので、そもそも「変わり者」であったり、優秀な人であったり、ふつうの人とどこか違う。

実は数少ない労働も二分化している。主人公の目黒の唯一の生産者の友達は、会社で研究職をしているのだが、こういった「ガチの仕事」もあるが、その一方で、目黒の働く職安で紹介する仕事は、「人間にしかできないが、人間であればできる仕事」なのだ。具体的に言うと、海外(インド)の寿司レストランに箔をつけるために雇われる日本人や、自動運転車が事故を起こしたときに責任をとって辞める県庁の交通課職員(目黒の前職)、防犯カメラに映り込むことでプライバシー保護のためカメラデータがビッグデータ解析にまわされるのを防ぐ仕事、などである。これらはいずれも、人間にしかできないが、人間であれば誰でもできる仕事だ。

大塚と目黒は、働く必要がなくなった社会で、それでも働きたい人に、仕事を斡旋する。目黒もまた消費者として生きていくこともできるのだが、彼女には彼女の働く「切実な理由」があり、県庁に就職し、その後、職安にたどり着く。しかし、なぜ人は働くのだろう。

私は『ディストピアSF論』で「労働解放ディストピアの製造コスト」という章を書いた。これは、「昔から人間は労働から解放されたユートピア世界を夢見てきたが、実際に労働から解放された世界が誕生すると、人間にとって「大切な何か」が欠けた、ディストピアになっているのでは?」という疑問から書き始めた。本作『未来職安』も労働解放ユートピア(ディストピア)のひとつである。人は、消費だけをして楽しく生きていけるのだろうか? 消費は(刹那的に)楽しいかもしれないが、楽しい消費だけからなる生活は、「ほんとうに(長期的に? 本質的に?)」楽しいものなのだろうか? (たしか)マイケル・サンデルは「尊厳は給付できない」と言っていたが、人は働くことで賃金以外の何か(尊厳?)を得ているのではないか。この物語が面白いのは、目黒が働く理由である。クリエイティブな自己実現、ではない。自己実現ではあるが、「家族と一緒に生活したくない」という、どちらかといえば後ろ向きなもの。消費するものを選べているようで、根本のところでは選べない不自由さ(例えば、家族と一緒に生活しなければならない、といった)が消費者にある。となると、現代的人間の尊厳とは、自己決定と関係しているように思うのだが、どうだろう。

本作は、ディストピアとも形容しうるが、しかし出てくる登場人物たちや世界の雰囲気は、殺伐とせず、職安の所長に猫をすえるぐらいなので、余裕がありゆったりしている。となると、「自己決定こそが尊厳だ!」という主張すら脱臼されてしまうかもしれない。

関連書籍


いいなと思ったら応援しよう!