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今年好きだった短歌


今年読んで好きだった短歌四首の感想。
(もちろん他にも数えきれないほどあります。)


コピー機にうつむくきみのさびしさを歯茎で受けとめたい笑いたい/大森静佳 

短歌研究11月号『ガーネット』より

歯茎で受けとめたいという表現が、突き抜けた異様さを放っている。
コピー機という大量に同じものを吐き出す無機質性と、歯茎という生々しい肉感が混ざり合わずにいびつなかたまりとして胸に入ってくる。
コピー機の前では少しうつむく態勢になることが多いのではないか。笑えば歯茎が見えることも自然なことだ。
この歌からはそのような日常にありふれるシーンから、丁寧に感情の機微を掬い取って、逃したくないという決意のようなものが感じられる。
ただ笑い飛ばすだとか、あかるい方向に持っていくみたいなことではなくて、体の芯で受けとめたいんだという強い信念があるのではないか。
韻律の面でも、「茎」と「受け」の音のインパクトが強く引っ掛かって、そこから「たい」が繰り返されて、心地よい韻律で収束するところに緩急が感じられて好きだった。
凄みのある歌だと思う。


古着屋でマネキンがしてるヘッドフォン 愛の言葉はくせになるから/我妻俊樹

文學界9月号より

「古着屋」で「マネキン」が「ヘッドフォンをしてる」という構図自体が、世間は愛の言葉をリピートしたがるということを再現しているのではないかという気がしてくる。
世間一般的に愛の言葉はくせになると考えられていますから、古着屋では当然マネキンにヘッドフォンをさせるんですよ、というよくわからない理屈が刷り込まれてしまっているかのようだ。
音楽=愛、短歌=愛、みたいな前提はちょっとしんどい、みたいなことも思った。
でも、我妻さんの歌を読むときは、自分は何も考えず楽しんでいるので、感想を書きながらあまり納得していない。
とにかく好きな歌だ。



公園につぶしていない蟻ばかり 妹たちといればわたしが/椛沢知世

『あおむけの踊り場であおむけ』より

蟻の認識としてつぶしていない蟻・つぶしている蟻と思ったことはないかもしれない。思っても脳内で言語化していない。まずその言い方に掴まれる。
妹たちといればわたしがという言い方からは、妹たちのためにわたしがやらなければならない、という年長者が持つ責任感のような心情があらわれているように思う。
今は妹はいなくて一人であるから、つぶしていない方の蟻を眺めていてもいいけれど、妹がいる世界線ではどうなるかわからないというような。
この一首だけを読むと、この主体に妹がいるのかどうかもわからない。妹的な存在とともにわたしがいる、と認識したならば、わたしは黙っていられなくなる。
蟻というのは何のメタファーなのだろうか。



ポケットであたためていた逆光に「雑木林」ともう一度言う/藤井柊太

現代短歌01月号より

逆光と自分とのまるで師弟関係のような構図がおもしろい。
逆光という言葉の選択が好きだった。光そのもののことではなく、光と自分の立ち位置のことを言っていて、それをポケットであたためているという表現は妙に説得力がある。
言葉を完成させるためには言葉を覚えさせなければ、みたいなことなのか。雑木林も逆光も暗さを含んだ言葉であり、その近さが言葉に言葉を教え込んでいるかのような印象を与えている。
隙を見せているのに隙がないような、あたたかさと冷たさが同居している一首。



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