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「世間」と個人

こんにちは、少し前に吉隠ゆきさんの記事を読んでいました。



この記事にある阿部謹也さんの「世間とは何か」では西洋中世が専門の著者らしく、西洋との比較において日本は”社会”ではなく”世間”中心の世界であると論じています。本の中では吉田兼好、親鸞、井原西鶴、夏目漱石、そして永井荷風と金子光晴らの作品を紹介しながら様々な切り口で日本独特の”世間”というものを明らかにしています。

この講談社現代新書「世間とは何か」の前に、阿部謹也さんが書かれたのが講談社学術文庫「西洋中世の愛と人格」~「世間」論序説~になります。本の前半ではまさしく世間と社会の関係や、個人の成立というテーマを中心に据えて書かれています。本の中では西洋中世での”個人”の成立過程について、ときどき日本の”世間”も比較しています。エッセンスを上手くまとめる力は無いので、私が感銘受けた部分をいくつか紹介させていただきます。

講談社学術文庫 税別1110円也

「世間」の話になると、もちろん比較として「社会」が出てきます。この「世間」と「社会」の大きな違いはその排他性、地域性にあると思います。普段は気にせず2つの言葉を使いこなしている我々の底流には本音と建前のように、頭では社会的意識を、しかし現実の心・アクションは世間に縛られているのではないでしょうか。

世間が私たちを縛っているのではない。私たちが世間に縛られることを望んでいるのである。世間を離れては自分が立ち行かないのである。どこでもいつでも群れているのが私たち日本人なのである。その私たちの群れの掟が世間なのである。

(本書46Pより)

世間と社会と個人、という関係性については西洋と日本とでは成り立ちから異なっています。西洋での個人の尊厳は、キリスト教を下地にした明確なこの世とあの世、絶対的な神と人間の一度限りの生、から生まれるのですが、日本の場合はここまで絶対的な意識は無く、神様仏様にしてみても多様性や無常性が呪術的な部分が未だ強いと思います。

ヨーロッパでは基本的には個人を単位として、その一個人が社会に対峙していると考えられますが、日本では一人が単独で社会に対しているわけではないのです。これは一人だと声を上げにくく、泣き寝入りする事の多い様々な事柄が日本には多い事からも分かります。このような個人だと泣き寝入りする事はヨーロッパではほとんど無いのでしょう。

日本人は社会を構成する個人である前に、世間の中である位置をもたなければならない。「世間を騒がせて申し訳ない」という言葉は、このような関係を物語っているのであり、わが国では、個人は世間に対して責任を取らなければならないことを示しているのである。

(本書177P及び192Pより)

我々は”社会”に対峙する為には”世間”に認知されねばならず、世間という鎧で自分の周りを固めないと、余りにも”個人”は弱いのかもしれない。中世から個人という存在がとても弱い事の例として、神判の事例が書かれています。何らかの事案で双方が対立した際で理性的な論理や証拠で審議を尽くさずに神判(占い)で決着させたり、疑いをかけられた際に積極的な無罪主張は周囲に任せて、とにかく本人は隠れて嵐が過ぎるのを待つという事、などです。

何かを決定するときに、合理的な根拠を互いに論じ合う、というよりは、ジャンケンやくじを引いて決める方式が、すべての人を満足させる方法としていまでも用いられている事は、このことと無関係ではないだろう。

(本書190Pより)

個人が弱い事は責任の背負い方にも影響して、それは歴史的背景がある以上は現代の様々な社会システムにも関連します。例えば会社の業務で考えると、一般的な業務(と責任)でさえ個人に背負わせて、有給休暇を取りづらい日本と、業務は総じてシステム的な問題と考え、休みも労働者の当たり前の権利として取得するヨーロッパの違いにも表れているのかもしれません。

本書の中では西洋の個人概念の成立について、古代ゲルマンの民族意識からキリスト教以降の罪の意識への変化が個人概念に及ぼした影響なども書かれています。他にも、題名にあるように西洋中世の愛と人格についても扱っていますが、私にとっては日本における世間と個人、という部分が強く印象に残った本でした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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