三千世界への旅 倭・ヤマト・日本6 女王・女帝から考える古代2
古代の氏族社会と女王・女帝
飛鳥時代の話が長くなりましたが、僕が女王・女帝を通じて考えたいのは、倭国では弥生時代から古墳時代を経て、飛鳥時代(古墳時代末期)まで、同じような価値観による有力豪族の氏族連合という支配形態が継続していたのか、それともそこには価値観の変化があったのかということです。
古墳時代に大陸・半島から様々な勢力が渡ってきたとしたら、連合の構成には大きな変化が生じたはずですから、古代的な氏族社会や、その連合による国家という形態や、その基盤にある価値観にも変化はあったでしょう。
だとしたら、その変化はどのようなものだったのでしょうか?
弥生時代末期に倭国が大きく乱れたとき、中心となる邪馬台国が卑弥呼や壹与のような女王を立てることで氏族連合がまとまったのだとしたら、戦争で国が混乱していた古墳時代前期から、戦乱がおさまったと見られる倭の五王の時代にも、女王が立てられてもよさそうなものですが、そうならずに男王の時代が続いたとしたら、それはなぜだったんでしょう?
女王が機能する条件
弥生時代末期の邪馬台国の場合、その前に立てられた男王では争いがおさまらず、卑弥呼が女王に立って倭国連合がまとまったのは、鬼道つまり当時の宗教的なパワーを持っていたからだったようです。
それだけ弥生時代には宗教が大きな力を持っていたということでしょう。
しかしここで重要なのは、この宗教的な価値観を邪馬台国だけでなく、倭国連合を構成する国々、地方の豪族たちが共有していたということです。そうでなければ男王でおさまらなかった騒乱が彼女の即位でおさまることはなかったでしょう。
それは紀元前10世紀あたりに水田耕作が日本列島に持ち込まれてから、千数百年のあいだに形成され、共有されるようになった宗教的な価値観だったのかもしれません。つまり小国家群が生まれ、国家間が互いに争うようになる前に形成され、弥生時代の倭国全体に共通する信仰・価値観が存在したことになります。
価値観共有がない戦乱の時代
では、た古墳時代の前半が戦乱の時代だったとしたら、戦乱をおさめるために女王が立てられなかったのはなぜでしょう?
それはおそらく、争っている勢力が弥生末期とは大きく変化していたからです。
弥生時代の倭国には千数百年かけて形成された、共通の信仰・価値観がベースにあったのに対して、古墳時代には大陸・半島の各地から多様な勢力が渡ってきて、各地に拠点や支配地域を築いていたでしょうから、そこに弥生時代のような共通の信仰・価値観はなかったでしょう。
信仰する神々や世界観・価値観が違うわけですから、そうした多様な民族の上に、神々と人間界を取り持つシャーマン的な女性を女王として立てても、国をまとめることは不可能です。
したがって、古墳時代前期・倭の五王時代が男王の時代だったのは、邪馬台国・卑弥呼の時代と政治的な環境が大きく違っていて、武力で統治するしかなかったからということになります。
アマテラス神話と女王復活
では古墳時代末期、飛鳥時代になって、女王・女帝が復活したのはなぜでしょうか?
戦乱の時代が終わって、奈良の大和盆地を中心とした国家が成立し、国政が安定してきたことで、武力による統治から文化・信仰による統治への転換が起きたということでしょうか?
だとしたら、それはどんな変化・転換だったんでしょうか?
ひとつ考えられるのは、武力以外に国を治める手段として、女神を頂点とする信仰が構築されたのかもしれないということです。
それは邪馬台国・卑弥呼の時代の文化・信仰の復活だったというより、卑弥呼のイメージを利用した新しい神話の創造だったのかもしれません。
それが飛鳥時代末期から奈良時代にかけて、我々が知っている『古事記』『日本書紀』のアマテラス神話へと体系化されたというわけです。
ただ、このアマテラス信仰が政治に反映されて、卑弥呼・邪馬台国時代の女王・女帝が復活したのかというと、それは違うような気がします。
卑弥呼が巫女・シャーマンとして宮殿の奥に隠れて神のお告げを聴き、弟がそれを臣下たちに伝えて政治を行なったのに対して、推古に始まる飛鳥時代の女王・女帝は、前回見たように、男性の大王・天皇と同様、国のトップとして公に姿を現し、政治や行事を取り仕切っているからです。
たとえば白村江の戦いの時の斉明が、半島に出兵する軍を送って九州・筑紫まで出向いたことなどは、男女を問わずこの時期の大王・天皇にとって必要不可欠な任務であり、宮殿・神殿の奥で神々と交信する巫女・シャーマン的な女王の役割とは大きく異なっています。
こうして見ると、『古事記』『日本書紀』のアマテラスを頂点とした神々の神話は、遠い昔の邪馬台国と大和朝廷を結びつけるシステムとしてのフィクションであり、飛鳥時代から奈良時代にかけて女王・女帝が何人も立ったという現実世界の政治とは直接結びつかない気がします。
グローバリゼーションと女王復活は矛盾する?
飛鳥時代は中国や半島との交流を通じて、仏教や先進的な技術、社会制度を導入した時代、当時のアジアのグローバルスタンダードを受け入れて改革開放を推進した時代です。
アマテラス系神話の体系化や女王・女帝の統治が、この改革の時代に行われたというのは、考えてみると奇妙な印象を与えます。
中国の思想・政治システムである仏教や儒教、道教などがこの時代に導入されているのですが、その根底にある中国の価値観は、倭国古来の信仰といわば対立するものだからです。
仏教支持派の蘇我氏や用明・推古王朝と、古来の信仰支持派である物部氏の対立が激しい戦闘による物部氏の滅亡で決着したことを見ても、当時の倭国には仏教に拒絶反応を示す人たちがいたことがわかります。
女王・女帝を立てる政治的風習も、中国の男性支配による政治システムとは決して相性のいいものではなかったでしょう。
中国と国交を活発化して、倭国の情報が中国に知られれば知られるほど、倭人は女の族長がいる野蛮な国だという見方をされる可能性があったからです。
だから邪馬台国では卑弥呼が魏の使節と直接会わなかったし、推古以降の女王・女帝も似たような対応をしていたとする説もあります。
しかし、卑弥呼は海外使節だけでなく、国内の誰とも会わないことで神秘的なパワーを維持した女王だったのに対して、義江明子によると、飛鳥・奈良時代の女王・女帝は、堂々と海外の使節と会っていたとのことです。
グローバリゼーションのストレス緩和策?
グローバリゼーションの時代にアマテラス系の女神信仰が、倭国・日本のオフィシャルな信仰として位置付けられるようになっていったのは、もしかしたら中国の思想・システムの導入に対する国内の拒否反応を中和するためだったのかもしれません。
日本が幕末から明治時代に欧米の文化・システムを取り入れて近代化を図ったときも、それについていけない人たちがたくさんいて、色々な反発が生まれました。それを押さえ込んで近代化を進めることができたのは、古代から存在する、神格化された天皇を国のトップに据えたことが大きかったと僕は見ています。
飛鳥時代にもそれと同じような国家主導の「近代化」を推進しようとして、それについていけない勢力から様々な拒否反応が生まれたとき、物部氏の粛清といった武力による抑え込みだけでなく、反対派が受け入れやすい価値観を活用することが有効だったのかもしれません。
たとえば、「倭国にはかつて邪馬台国という伝説の女王に統治された豊かな国があり、自分たちはそれを受け継いでいる」、あるいは「女神が統治する天上界から降臨した神の子孫によって造られたのが我々の倭国だ」といった信仰を改めて体系化し、国家運営の柱に据えることによって、海外の思想・システムを受け付けない勢力を納得させたということです。
アマテラス・卑弥呼・神功皇后
『日本書紀』の神話時代から歴史時代へと移っていく時期の記述には、アマテラスや卑弥呼のイメージを意識的に活用していると思われる箇所があるとされています。
それは実在した最初の大王・天皇とも言われる応神天皇(倭の五王のうちの1人と推定されています)の母・神功皇后に関する部分です。
彼女は皇后であって天皇ではないのに、自ら軍を率いて朝鮮半島征伐に出かけるといったスーパーウーマンぶりを発揮するのですが、そこには天界の神々の女王であるアマテラスや、伝説の邪馬台国の女王卑弥呼と彼女のイメージを重ね、飛鳥時代のヤマト朝廷へとつなげる意図が働いていると見られています。