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三千世界への旅/アメリカ12

独立革命を成功させたもの

権力をめぐる対立


しかしアメリカ合衆国発足当時、この連邦という国家のかたちは、必ずしもすべての人に歓迎されたわけではなかったようです。

各植民地には、せっかく大英帝国から独立して自由になったのに、今度はアメリカの連邦政府というのが上から自分たちを支配しようとしていると感じた人たちもいました。その代表が、建国の父の中でも突出して優れた思想家と見られていたトーマス・ジェファーソンでした。

ジェファーソンの伝記『トマス・ジェファソン 権力の技法 Thomas Jefferson Art of Power』によると、彼は連邦政府の組織や権限を拡大していくハミルトンとその一派を危険視するようになりました。

連邦政府を強化する考え方の人たちは、連邦つまりフェデレーションを重視するということでフェデラリストと呼ばれました。ハミルトンやマディソン、ジェイが書いた合衆国憲法の解説書『フェデラリスト』のタイトルと同じです。ただし、マディソンは次第にハミルトンから離れ、ジェファーソンと組むようになります。

ジェファーソンはマディソンと組んで合衆国政府、特にハミルトン一派を批判する論文を雑誌に発表するようになりました。ハミルトンもこれに雑誌で反論します。

この時代の政治論文は大体そうですが、論文の作者名は仮名を使うので、直接当人たちが非難の応酬をしているようには見えませんが、政治家や政治に詳しい人たちには誰が論文を書いているかは推測できます。

ジェファーソンは自分の子分・弟分にかかせることが多かったようですが、精力的な文筆家だったハミルトンは自分で書いたようです。


連邦派vs共和派


ジェファーソンの主張は大まかに言うと、アメリカはそれぞれ異なる特色を持つ植民地の、様々な人々が独立を勝ち取ってできた国なのだから、中央政府はあまり大きな権限を持つべきではない。一番大切なのは国民の権限であり、自由であるということのようです。

彼の一派は連邦主義者/フェデラリストに対して、共和主義者/リパブリカンと呼ばれました。この考え方は今でも共和党の基本的な立場に通じるものがあります。小さな政府で国民の自由を重視するという立場です。

ジェファーソンはワシントン政権の途中で国務長官を辞任してバージニア州の農園に引きこもり、マディソンなどの一派を使って政権批判、フェデラリスト批判を強めていきます。

「フェデラリストはワシントンを終身独裁官にして、実質的な王政へと移行しようとしている」とか、「イギリスにすり寄って、アメリカを大英帝国の一部にしようとしている」といった誹謗中傷的な政治論文がたくさん書かれたようです。


現実的な連邦派と理想主義的な共和派


当時は経済的にも軍事的にもイギリスが圧倒的に強かったので、中央政府や連邦軍を強化するワシントン政権の路線は、イギリスの体制をまねたり、イギリスの支配下に逆戻りしたりしかねないという危惧を多くの人に抱かせたのは事実です。

しかし、できたてのアメリカは経済力も軍事力も弱かったし、ヨーロッパ諸国に独立国として認めてもらい、国債を買ってもらうためにも、中央政府や制度をしっかりさせる必要がありましたから、ワシントンとハミルトンの政策はリーズナブルなものだったといえます。

そもそも共和制の民主国家というものが、独立戦争終結の時点では先進地域でのヨーロッパにもまだありませんでした。アメリカを追いかけるようにフランスで革命が起きたのがワシントン政権発足の1789年ですから、まだアメリカもフランスもこの先どうなっていくのか誰もわからない状態だったのです。

現にフランスは革命後に共和制・議会民主制の政権を樹立しましたが、政党間の権力闘争でリーダーが次々と断頭台で処刑される事態に陥り、大混乱の中で軍人出身のナポレオン・ボナパルトが独裁官に、そして皇帝に即位して、共和制も民主制も破綻してしまいます。

アメリカだってフェデラリストとリパブリカン、連邦派と共和派の間で血みどろの戦いが起きていたら、大混乱に陥ってイギリスにつけ込まれ、また植民地に逆戻りするか、強権的な独裁者が出現して、自由のない国家になってしまう危険性もあったわけです。そうなった場合、フランスのように革命運動やクーデター、内乱が100年近く続いたかもしれません。

ところが実際にはアメリカでそういう事態は起きませんでした。それはなぜでしょう?


革命の主役


ひとつには、革命の主役の違いが考えられます。

フランス革命で権力を握ったのは、飢餓に追い詰められて暴動を起こした民衆ではなく、どちらかといえば頭でっかちのインテリたちでした。

彼らは暴動の熱狂によって極端な思想に傾きがちで、国王一家をギロチンで処刑しただけでなく、革命家のあいだでも意見が対立すると、議会の多数派工作で敵を失脚させ、ギロチンで首を刎ねたりしました。

革命の理想をヨーロッパ各国に輸出しようと、ドイツやオーストリア、イタリアに戦争を仕掛けたりもしました。

これに対して、アメリカでイギリス軍や現地の総督に刃向かい、暴動を起こしたのは、飢えた暴徒ではなく、自分たちの資産を持ち、アメリカで農業や商工業を営んでいる、比較的豊かな市民や地主たちでした。

アメリカでは植民地時代から各植民地にそれぞれ自治を志向する議会が存在していて、政治的なリーダーたちも植民地のメンバーたちの代表として考え行動する仕組みがそれなりに機能していました。

彼らはそれぞれのルーツや、地元の産業構造などによって異なる価値観や利害関係を持っていて、すでに見たように政治的な意見は異なっていましたが、それを政治的謀略による処刑といったことで解決しようとはしませんでした。

彼らのリーダーたちが独立前や直後は大陸会議、アメリカ合衆国設立後は連邦議会で意見を戦わせ、政治評論誌に発表する論文で世論を動かしながら、政治に反映させていきました。


守られた国家としての一貫性


初代ワシントン政権の8年間は、連邦政府を強化する政策がジェファーソンやマディソンなどの共和派から非難を浴びましたが、独立戦争の英雄であるワシントンの人気や国民からの信頼は絶大で、政策をめぐる非難はもっぱらハミルトンと連邦派の政治家たちに向けられました。

第二代大統領ジョン・アダムズも共和派の非難や誹謗中傷を浴び、2期目の選挙でジェファーソンに敗れ、そこから数十年間は共和派の大統領の時代が続きました。

ジェファーソンと共和派の人気も絶大でしたが、彼は大統領になってから、それまで激しく非難し否定していた連邦政府の組織、特にハミルトンとその一派によって作られ、運営されていた財務省の組織を解体したりはしませんでしたし、連邦軍や国防省、中央銀行なども基本的にそのまま残しました。



矛盾をコントロールする技術


野党・反体制派だったときは、連邦派を激しく批判したものの、それらの機構がアメリカにとって必要だということを理解していたからでしょう。自分たちが権力を握ったら、それなりの責任が生じますから、連邦国家として必要なものは残さざるを得ないわけです。

ジェファーソンの時代から、アメリカ合衆国は独立の熱狂と創造から、理性と妥協による統治へと移行していきます。

彼の伝記のサブタイトルにある「アート・オブ・パワー」とは権力を行使するための技術みたいなことのようですが、それは市民の利益や感情の追求の擁護という自由主義の理想と、国家というシステムを維持・運営していくための秩序という、相反する要素を両立させる難しい技術です。

相反するものを両立させようとするわけですから、そこには当然矛盾が生まれます。アメリカ合衆国は、この矛盾を巨大な規模でなんとかコントロールしながら運営されてきました。

ジェファーソンはこの難しい制御の技術を初めて確立した大統領だったと言えるかもしれません。


抗争より成長に向けられたエネルギー


前にも触れましたが、アメリカにとってラッキーだったのは、経済的な拡大成長の余地がいくらでもあったことです。特にジェファーソンの時代はアメリカが東部から中西部へ領土を拡大していった時期でした。

独立戦争後イギリスが領有していたアパラチア山脈の向こう、ミシシッピ川の手前までの領土へどんどん開拓民を送り込むことができました。フランス皇帝ナポレオンから当時フランス領だった中西部の広大な土地ルイジアナをタダみたいな値段で買うことができたといった幸運もありました。

アメリカ国民は勇気と根性があれば新しいな土地を手に入れ、農園主になることもできましたし、新しいビジネスで成功するチャンスもありました。

この当時は無限と見えた広大なフロンティアとそこから生まれるチャンスこそ、フランスにもヨーロッパのどこにもない、新大陸アメリカの財産でした。アメリカ人は限られた土地に縛られて互いに争わなくても、フロンティアで富を作り出すことができたのです。

たぶんこれこそがアメリカをフランス型の内紛や混乱から救った最大の要因だったのではないかと思います。

もちろんその広大なフロンティアは元々先住民のもので、イギリスやフランスから手に入れたというのはあくまでアメリカ人の勝手な理屈ですが、新しい土地を開拓して急速に豊かに、強大になっていったアメリカにとって、先住民は力で難なく解決できる小さな問題にすぎないと感じられたでしょう。

この身勝手さ、能天気さ、大雑把さもまたアメリカ人の特性のひとつになっていきます。

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