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倭・ヤマト・日本9 仏教伝来と倭・百済・高句麗・中国の関係


先端トレンドとしての仏教


話はもう一度、聖徳太子時代に戻ります。

彼が摂政として倭国の政治をリードするようになったと言われる593年あたりのことです。

彼は当時、蘇我氏などによって倭国に浸透しつつあった仏教をより本格的に学び、国の政治・文化の柱として導入する国家プロジェクトを推進しようとしました。

元々東アジアに伝わった仏教は、遊牧民・騎馬民族によって、西域からもたらされたものですが、その一勢力である隋が581年、五胡十六国時代の国家の分立・抗争状態に終止符を打ち、久しぶりに統一を果たしたことで、中国大陸の新しいシステムになりつつありました。

中国を取り巻く周辺の国々にとって、仏教を導入することは、単なる宗教・信仰を受け入れることではなく、国家・社会・文化のあり方を支えるシステムを導入することでした。

当時の倭国の王朝にとって、仏教は中国・東アジアの先端的な技術や文化、政治システムと一体であり、仏教をより本格的に導入することは、隋の中国統一で大きく変化していく東アジアのトレンドにキャッチアップしていくことだったわけです。



なぜ高句麗からだったのか?


仏教と当時の先端技術・文化を本格導入したいなら、隋に朝貢して衛星国として認めてもらうのが一番です。

現に倭国は600年から618年の間に何回か使いを送っています。

しかし、仏教の本格導入プロジェクトがスタートしたのはその前です。

女王・推古が即位し、聖徳太子が摂政になった593年の翌年、いわゆる仏教興隆の詔が発せられた594年からとされています。

難波、今の大阪に四天王寺を建てたのは593年、蘇我氏が反仏教勢力だった物部氏の一派を滅ぼしたときに多数の死者が出たので、それを弔うためだったと言われています。

595年には高句麗から高僧・慧慈を招き、仏教の深い教義を学ぶと共に、当時の中国と仏教をめぐる国際情勢について理解を深めたようです。

中国を統一した隋が仏教を統治に導入しているといった情報も慧慈から聞いて知ったとされています。

これが事実だとすると、仏教を本格導入することと、隋との国交樹立が倭国の重要課題になるのは、ここからだったということになります。

つまり、より本格な仏教の導入はまず高句麗からスタートしたわけです。

それはなぜでしょう?



最初の仏教伝来は百済から


ひとつ考えられるのは、大国である隋にいきなり接触するより、高句麗に協力を頼む方が気楽、あるいは確実だったことです。

そもそも倭国への仏教伝来は538年に百済の王が仏像をもたらしたことに始まると言われています。

百済はこの頃から飛鳥時代にかけて、倭国と親密な関係にあったようです。

高句麗・百済・新羅とは、3世紀末から4世紀にかけて、高句麗の広開土王や倭の五王の時代あたりに、倭国が半島に出兵して戦ったり、半島の南部に拠点を築いたりと、対立・抗争の時期もあったようですが、6世紀にはこうした抗争は落ちついていたと見られます。

その中で、特に百済と倭国は親密で、『日本書紀』には百済が倭の属国的な同盟国だったと思わせるようなことが書かれています。

その後の歴史を見ると、百済の王子が倭に預けられたりして、7世紀に百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされたときも、倭は大軍にこの王子を半島へ送らせ、百済の残党的な勢力と合流して、百済国の再興を試みたりしていますから、この親密さはかなりのものだったようです。



百済から高句麗へ


一方、百済は高句麗経由で仏教を導入しています。

そもそも百済は4世紀頃、高句麗の支配勢力の一部が半島南部に進出して建国したと言われていますから、元々高句麗は百済にとって宗主国・本国的な国でした。

高句麗は半島の北部にあって、国境を中国と接していますから、仏教の伝来も百済より早く、西域・シルクロードから遊牧民・騎馬民族によって中国北部に仏教がもたらされた4世紀頃から仏教導入が始まったようです。

百済は高句麗経由で仏教を受け入れ、6世紀にそれを倭へ伝えたのですが、仏教文化のレベルは高句麗に及ばず、倭国側が6世紀末に国家ブロジェクトとしてさらに本格的に仏教導入を推進するにあたっては、直接高句麗から思想的なリーダーとして高僧・慧慈を招き、その他にも寺院建築の技術集団を招聘して、四天王寺などの寺院を建立しました。



百済・高句麗の協力的姿勢の背景


不思議なのは、なぜ百済も高句麗も倭国に協力的だったんだろうということです。

まず百済は、倭国の従属国的な立場にあったとしたら、協力せざるを得なかったのかもしれません。

しかし、仏教とそれに伴う制度や技術・文化は、当時としては先端的なシステムやテクノロジーであり、それらを導入することで国力を増大させることができるから、各国が受け入れたわけです。

だとしたら、百済は海を隔てた島国である倭に仏教を伝えずに、自国でせっせと高句麗から仏教の先端システムやテクノロジーを導入して国力をつけ、倭国を置いてきぼりにすれば、従属的な立場を逆転させることができたかもしれません。

それをしなかったのは、百済にそれだけの知恵や勇気を持つ王族・政治家がいなかったということでしょうか?

百済と倭の関係については、いずれもう一度新たな角度から考えてみるつもりなので、ここではこのくらいにしておきます。

一方、高句麗はこの頃倭国との間に、百済ほど直接的な交流はなかったようです。だとしたら高僧や技術者集団を遠い倭に送る必然性もなかったでしょう。

仏教導入では倭国より150年から200年くらい先を行っていますから、後進的な島国である倭国にそんな恩恵を施すメリットはないように思えます。


隋との対立が生んだ変化


しかし、6世紀末の東アジアの国際情勢を少し引いて見てみると、高句麗が意外と危機的な状況にあったことがわかります。

武田幸雄の『朝鮮史』によると、高句麗は朝鮮半島を支配する大国だった頃の勢いがなくなり、かつての衛星国だった百済と新羅が台頭していました。

570年には、かつて敵対していた倭に初めて使者を派遣し、国交樹立を模索しています。百済と新羅を牽制するため、倭との友好関係を樹立する必要が出てきたわけです。

当時中国統一を進めていた隋の文帝が即位すると、高句麗と百済はほぼ同時に朝貢し、隋から柵封を受けます。柵封というのは宗主国からその土地の従属国として認定されることです。

589年に隋が290年ぶりの中国統一を果たすと、百済は早速祝賀の使いを送り、翌年高句麗もこれに続きます。

中国王朝との直接外交で出遅れていた新羅も、594年に隋に朝貢し、柵封を受けます。

つまり、久しぶりに誕生した隋という超大国に対して、高句麗・百済・新羅の三国は横並びの関係になってしまったわけです。

さらに、そこから高句麗は隋との関係を悪化させていきます。

元々高句麗は中国に南朝と北朝が存在した時代、両方に朝貢することで、隣接する北朝を牽制してきたのですが、中国が統一されたことで、いきなり超大国と国境を接することになりました。

これは高句麗の南にあって、隋と直接国境を接していない百済・新羅とは全く異なる緊張感を生みます。



隋の敵国と組んでしまった倭


高句麗は隋の侵攻に備えて国境の防御体制を強化しました。

すると隋の文帝はこれを問題視し、598年、高句麗の領域侵犯を口実に水陸30万の大軍を派遣します。

このときは高句麗が謝罪して紛争はおさまりましたが、ここから隋と高句麗の関係は悪化していきます。

高句麗が中央アジアの騎馬民族である突厥と連携しようとしていることが発覚して問題になったこともありました。

隋は煬帝の時代になると、612年に100万の軍を高句麗に出動させ、そこから毎年のように大軍を派遣しますが、高句麗はなんとかこれに耐えます。

そうこうしているうちに、建国まもない隋は遠征で国が疲弊し、国内に氾濫が広がって滅亡してしまいました。

倭国が高句麗の援助で仏教本格導入プロジェクトを進め、隋に使者を送って国交樹立を模索した時期、中国と朝鮮半島ではこういう動乱が起きていたのです。

東アジアで立場が危うくなっていた高句麗は、友好国を増やそうと倭に仏教関連の援助をしたわけですが、この動きが隋に知れたとしたら、倭国は潜在的な対立国と位置付けられることになったでしょう。



隋から見た倭国と遣隋使


隋にとって倭国は半島の沖合にある後進国の島国ですし、南朝の宗には200年くらい前の倭の五王時代に朝貢して柵封を受けていたものの、遊牧民・騎馬民族出身の新しい統一王朝である隋はそんな経緯まで知らなかったかもしれません。倭国に興味もなかったという可能性もあります。

しかし、実際に国境を接している高句麗と紛争状態に突入していった時期ですから、高句麗が周辺国とどんな外交を展開しているかには、神経を尖らせていたかもしれません。

だとすると、聖徳太子が送った第一回遣隋使の手紙が煬帝を怒らせたという逸話も実際には、高句麗と提携している国から使者が来て、お互いを対等の君子として付き合いたいみたいなことを言ってきたわけですから、怒るとか憎むというより、「仮想敵国の同盟国が何を企んでるんだ?」と警戒されたのかもしれません。

隋との国交樹立に失敗したことは、隋が早々に滅亡したことで、倭にとってそれほど大きなダメージにはならなかったように見えます。

しかし、続いて唐が中国を統一すると、東アジア情勢は倭国にとって存亡の危機を招きかねない事態へと進んでいきます。


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