見出し画像

三千世界への旅 倭・ヤマト・日本1 弥生時代と古墳時代


あらためて、縄文から弥生・古墳時代へ


去年の11月から今年の2月まで、縄文人と縄文時代について書いたものをアップしましたが、元々僕が縄文について調べるようになったのは、「日本人」という国民/民族や「日本」という国がどのように生まれたのかについて、改めて考えたかったからです。

縄文について調べているうちに、縄文の文化が弥生時代以後までどのように残り、その後の歴史や文化に影響したのかまで知りたくなり、弥生時代から古墳時代を飛び越えて、『日本書紀』が編纂された飛鳥時代末期から奈良時代の初めあたりのことまで書いてしまいました。

そこでは縄文的なものがどう生き残ったのかに焦点を合わせていたため、弥生時代以降の民族や社会がどんなふうに形成されたのかについては、あまり語らないままになりました。

ここからはもう一度、日本が中国の歴史書で倭(わ)と呼ばれていた弥生時代に戻って、この国と民にどんなことが起きたのかについて考えてみたいと思います。



平和的だった農耕社会への移行?


「縄文」からだいぶ時間が経ってしまったので、すでに「縄文」で先走って書いてしまった縄文から弥生への移行について、まず少しおさらいしておきます。

僕が若い頃は、日本列島に水田耕作が伝わったのは紀元前5世紀あたりで、そこから急速に稲作が広がり、紀元3世紀には邪馬台国と呼ばれる連合国家が成立していたと考えられていました。

この急速な稲作の広がりから、朝鮮半島から水田耕作を持ち込んだ民族が、かなり強引に先住民である縄文人を征服・支配することで、弥生時代の社会・国家が生まれたと推測されていました。

しかし、放射性炭素の年代測定技術が進化して、半島から日本列島へ稲作が伝わった時期が紀元前1000年あたりまで、約500年くり上げられ、水田耕作は従来考えられていたよりもかなり時間をかけて、ゆるやかに広がったと考えられるようになりました。

縄文人と水田耕作を持ち込んだ渡来人の集落が併存していたことを示す遺跡も、九州北部で発見されています。

こうしたことからわかるのは、朝鮮半島からイネと共にやってきた人々が、先住民である縄文人を暴力的に征服・駆逐したのではなく、少なくとも最初のうちは縄文人の集落がない平野部に稲作地域を開拓していったということです。

やがて渡来人は食料生産性の高さで縄文人を惹きつけるようになり、彼らを取り込みながら弥生時代の農耕社会を構築していったということのようです。



弥生時代に起きた変化


つまり弥生時代は朝鮮半島からやってきた人々が、先住民である縄文人と融合することで始まった時代であり、弥生人とは渡来人と縄文人が混血して生まれた新しい民族だったわけです。

去年の暮れにアップした「縄文12」でも紹介しましたが、NHK-BSの『フロンティア』というシリーズの『日本人とは何者なのか』という番組で、弥生人の遺伝子解析を行ったところ、縄文人と渡来人の遺伝子が約50%ずつという構成だったとのこと。これも弥生人が縄文人と渡来人の融合によって生まれたことを物語っています。

弥生人の中でも、農耕を行わない漁民には縄文人の遺伝子や文化がより濃く残った可能性があり、また北海道のアイヌや沖縄の人々も、縄文の遺伝子・文化をより濃厚に受け継いでいると考えられるので、一概には言えないかもしれませんが、身分の差が小さいネットワーク型社会だった縄文時代から、国家による支配が行われるようになった弥生時代への移行は、縄文人と渡来系農耕民が混血して生まれた新しい農耕民によって推進されたと考えられるわけです。

その過程で、装飾性の高い縄文式土器からシンプルで実用的な弥生式土器への移行に象徴されるように、縄文の文化は消えていったと見ることもできますが、そもそも縄文土器の装飾は、元々かなりシンプルだったのが、気候の温暖化で食料の獲得が容易になった中期に過剰なくらい芸術的かつ派手になり、その後の気候の寒冷化で集落も人口も減少した後期にはシンプルになっていったので、土器のデザインだけで縄文から弥生への変化を考えるのは的外れな気もします。

今年の1月・2月に紹介したように、縄文的な文化は弥生時代から古墳、飛鳥時代になっても、神話や翡翠の装飾品などに痕跡が残っていますから、縄文人の価値観や感性は、なんらかのかたちでその後の日本人の基盤を形成したのではないかと考えることもできるというのが、今僕が縄文から弥生への移行について描いている大体のイメージです。



弥生は支配と戦争の時代?


一方、縄文遺跡からは戦争や闘争の痕跡がほとんど見られないのに対して、弥生遺跡からは武器によって殺傷されたと思われる人骨が多数発見されていることから、弥生時代は闘争・戦争の時代だったと考える人もいます。

縄文時代の生活圏は精霊が偏在する自然の世界であり、縄文人も自分たちを自然の一部と考えていたため、土地やモノの所有をめぐって争うことがなかったのに対し、弥生時代の農耕社会で機能していたのは、土地や水の領有、地域の集団による組織的な農作業など、人や土地やモノを囲い込んで機能的に動かすシステムですから、そこにはそれらの所有権をめぐって、地域や組織の対立が起きます。

対立抗争の勝者は相手の土地や人を支配することで、より大きな土地・組織をかたちづくることができます。こうして小さな集落はより大きなムラになり、ムラの集合体であるクニが形成されていったと考えられます。




卑弥呼と宗教の力


今の資本主義経済を見てもわかるように、組織・企業は大きいほど強くなりますから、組織を大きくするための闘争・戦争は、発展する社会の必然と言えるかもしれません。

朝鮮半島から稲作をもたらした渡来人が、先住民である縄文人を武力で征服したわけではなく、平和的に彼らを取り込んで弥生時代の農耕社会を形成したとしても、この融合によって誕生した弥生人は、自分たちの農耕社会を発展させるため、お互いに争うようになったわけです。

もちろん戦争なんかしないで、平和に暮らしたいと思う人たちもいたでしょうが、ほかの地域の勢力が武力で侵略してきたら、戦わなければやられてしまいますから、いやでも武器を作って、戦いに備えなければなりません。

領土の境界では水や土地の所有をめぐって利害の対立が起きがちですから、どちらが好戦的かといったこととは別に、戦争は起こったのでしょう。



卑弥呼と宗教の力


こうして弥生時代後期には、小国家が乱立し、互いに争うようになったことが、いわゆる『漢書東夷伝』『魏志倭人伝』『後漢書倭伝』など、中国の古代資料からうかがえます。

『漢書』『魏志』『後漢書』は、中国の歴代帝国である漢・後漢・魏の公式な歴史書で、東夷伝や倭人伝、倭伝はそのうちの朝鮮半島や日本列島に関する事柄を記した部分です。

この中では『魏志倭人伝』が一番詳しく当時の倭について記しています。

『魏志倭人伝』からわかることで興味深いのは、小国分立状態だった倭を連合国家として統一した邪馬台国が、武力だけで連合を統治できず、女王・卑弥呼の宗教的な力によって、民や国家連合を統治していたらしいことです。

卑弥呼は中国の魏に遣いと貢物を送り、従属国として認められようとしました。魏はこれに対して卑弥呼に「親魏倭王」の称号と、様々な高級布製品や銅鏡などを与えています。

このとき与えられた銅鏡は100枚とされていますが、当時倭では金属製の鏡が反射する光は神聖なものとされていて、銅鏡は宗教的なパワーで民を統治するための重要な神器でした。

100枚というのは多い気もしますが、連合国家の頂点に位置する邪馬台国は、倭の従属国に銅鏡を分配することで、宗教的な支配体制を強化・維持することができたと推測されています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?