倭・ヤマト・日本21 中国外交をめぐる対立
なぜ中国外交は7世紀まで途絶えたのか?
ここでまたひとつ疑問が生まれます。
5世紀末から6世紀初頭にかけて、倭国政権に大きな空白・断絶が生まれたとしても、530年代あたりに百済経由で仏教が伝来したのなら、中国の文化・政治システムも導入され、当時としての近代化・改革が可能になったでしょう。
だとしたら、対中国外交も復活していいはずです。
それがなぜ7世紀の遣隋使まで途絶えたのでしょうか?
ひとつ考えられるのは、当時の倭国が百済経由の仏教・中国文化受容で精一杯で、中国と直接外交関係を結ぶ余力がなかったということです。5世紀末の内乱で、五王時代の外交を担った官僚・氏族も、そのノウハウも失われていたかもしれません。
中国側も、かつて半島や倭国を衛星国として認定していた南北朝時代の宋から斉、梁、陳へと目まぐるしく興亡していて、外交がやりづらい状態だったという事情もあったかもしれません。
ただ、589年に隋が中国大陸を統一すると、高句麗・百済・新羅はすかさず朝貢して冊封してもらっているのに対し、倭国は6世紀までアクションを起こしていません。
外交ノウハウが途絶えていたとしても、百済・高句麗と交流して仏教や中国文化・政治システムを導入しようとしていたわけですから、外交でも百済のサポートは受けられたのではないかという気がします。
それをしなかった、それができなかったのはなぜかというところから、また別の疑問が湧いてきます。
それは百済が倭国と隋の外交を快く思っていなかったのではないか、そしてそれはなぜかという疑問です。
百済に隋の国書を奪われる可能性はあった?
これに関して思いあたるのは、小野妹子が隋の煬帝から託された国書を持ち帰らず、「百済人に奪われた」と弁明した事件です。
僕はこれを、この国書の内容が国辱的だったので、小野妹子が推古・聖徳太子や群臣たちに見せるのをためらい、あえて破棄したのではないかと推測しました。
群臣たちがこれを咎めて小野妹子を処罰しようとしたのも、推古が事情を察して止めたというのも、なかなか政治的な判断で面白いと思います。
しかし、まだ疑問が残ります。それはなぜ小野妹子は「百済人に奪われた」という言い訳をしたのかという疑問です。
そういう言い訳をしたということは、百済人が国書を奪い取るような事件が起きる可能性があったということではないでしょうか。
東アジアの地図を見ると、隋の首都・洛陽と倭国を行き来するには、海をずっと航行するより、途中半島のどこかに寄港した方が安全です。寄港するとしたら半島の西側にある百済のどこかが便利でしょう。
『日本書紀』によると、この時期の倭国は新羅と戦ったりしているようですが、百済とは仏教導入・中国化プロジェクトで良好な関係にあったでしょうから、寄港することには別に問題ないはずです。
寄港したとしても、小野妹子は百済の役人に隋の皇帝からの国書を見せる必要もないでしょうし、そのまま奪われて返してもらえないわけがありません。
とすると、小野妹子の弁明は相当馬鹿げた、子供っぽい嘘ということになりますが、遣隋使の大役を任された優秀な官僚が果たしてそんな子供っぽい嘘をつくでしょうか?
そこから浮かび上がってくるのは、百済が倭国の遣隋使、隋との国交樹立を歓迎していなかったという可能性、そしてこの時点の百済と倭国の関係が対等でなかった可能性です。
倭国は百済の植民地だった?
実際に国書が百済に奪われることはなかったとしても、その可能性がなくはなかったから、小野妹子はそういう弁明をしたのでしょう。
つまり、遣隋使は帰国途中で百済に立ち寄り、隋で行われたやりとりなど、遣隋使外交の首尾について報告する、あるいは百済側から質問され、国書を見せてそのまま奪われてしまうといったことが起きる可能性があったということです。
それは、倭国が中国文化導入のサポートを受けている百済に対して、立場が下であり、外交などの重要事項について報告する義務があり、倭国に帰る前に隋の国書を見せろと命じられても、倭国の官僚である小野妹子には断る権利がなかったことを意味しています。
倭の五王時代の後、政治的混乱や権力の空白があったにせよ、倭国が独立国だったとしたら、百済とこんな関係が生まれるのは異常です。
ということは、この時代の倭国と百済は、ある意味植民地と宗主国の関係にあったということです。
倭国が中国から冊封を受けないままでいれば、東アジアにおいて正式な独立国としての地位はないわけですから、隋の建国直後に冊封を受けている百済にとって、倭国は実質的に植民地のような存在であり、百済の影響力を維持することができます。
逆に倭国が独自に隋と国交を結んだら、中国から独立した国家であるという認定を受けることになり、百済の倭国に対する影響力は崩れてしまいます。
倭国と百済の微妙な関係
そう考えると、倭国が隋の建国直後に使節を送って冊封を受けなかった理由や、倭国が百済のサポートを受けていたのに、第一回遣隋使が中国外交の初歩的なノウハウもなく、コミュニケーションがうまくいかなかった理由もわかる気がします。
倭国は隋と独自に国交を樹立しようとして、百済にやめろと言われ、その命令的な助言に逆らって遣隋使を派遣したのでしょう。
百済の強い影響下にあったとはいえ、一応倭国は独立国なので、百済の制止を振り切り使節を送っても、百済としては力ずくで止めることはできなかったようです。
百済が倭国と対立して紛争に発展したら、新羅がそれにつけ込んで百済に侵攻してくるといった可能性があったのかもしれません。
しかし、そんな百済としては、その意向に反して派遣される遣隋使をサポートするわけはありませんから、倭国側としては、ノウハウがないまま手探りでチャレンジせざるを得なかったでしょう。
その結果、第一回遣隋使は失敗に終わりましたが、あきらめずに送った第二回遣隋使は、煬帝の機嫌をそこねるミスはあったものの、国書を託され、隋の使節を伴って帰国するという成果が得られました。
百済としてはこの結果が気になってしかたなかったでしょう。
隋の使節を伴って帰国しようとしている遣隋使を、百済の寄港地で尋問し、煬帝の国書を没収してしまうというのは、下手をすれば隋の面子を潰して紛争になりかねませんから、実際には不可能に近かったでしょうが、百済がこの成功を面白く思わなかったというのは、十分あり得る話です。
百済依存の矛盾とナショナリズムの萌芽
この遣隋使をめぐる軋轢は、倭国に百済の強すぎる影響力に反発する勢力がいたことを物語っていると見ることもできます。
その勢力とは推古・聖徳太子をリーダーとする王家であり、蘇我氏のような豪族です。
この勢力は、百済を介して仏教を導入し、倭国の改革を推進しようとする勢力でもありますから、ある意味では百済とつながりが強い勢力でもあります。
しかし、改革を推進していく中で、ある時点から百済との関係に矛盾を感じ始めた結果、百済に対して独立性を維持しようという志向が生まれ、遣隋使の派遣につながったと見ることができるでしょう。
百済との関係の矛盾とは、倭国の発展のために中国文化の導入による改革・近代化を進めるはずが、中国文化の導入を百済に頼りすぎたために、倭国の独立性が失われ、発展が阻害されてしまうという矛盾です。
この矛盾を問題視するところから、遣隋使を派遣した頃の倭国には、前回触れた一種のナショナリズムのようなものが生まれたのかもしれません。
つまり、「日出る処の天使云々」という国書の気負った文面には、中国の隋という超大国と直接接する緊張だけでなく、百済から自立して隋と外交関係を樹立するという意識による緊張があるということです。
後に天武がめざした改革は、中国文化の導入による「近代化」の継続と、「日本」という国家/ネイションとしてのアイデンティティー確立という2本の軸があるのですが、それにつながる先駆的なネイションの意識、一種のナショナリズムは、遣隋使を派遣した推古・聖徳太子時代に、その兆しが見られます。
そして、このナショナリズムは、ただ中国/超大国・隋と接したことで生まれただけでなく、百済の支配・影響から自立しようという意識によって生まれたものでもあると見ることができるのです。