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三千世界への旅 倭・ヤマト・日本2 古墳時代の民族大移動

邪馬台国の九州説と大和説


邪馬台国といえば、昔から九州にあったとする説と、大和つまり今の奈良県にあったとする説があって、歴史学者の間でも決着はついていないと言われています。

『魏志倭人伝』などの記述を見ると、海人の暮らしや、船で海を渡って長い航海に出るときに、留守を守る妻が夫の無事を願ってどんなことをするかといったことが書かれていて、邪馬台国もその従属国群も海に囲まれているようなイメージを抱かせるので、連合国家全体が九州にあったのかなと考えてしまいそうですが、これは中国側が倭人からヒアリングした内容が、あまり内陸のことについて触れていないこと、中国側から倭に派遣された使節団が実際には九州北部しか見ていないことなどによるようです。

どうも邪馬台国の為政者たちは、国や政権の権威づけのために、中国・魏のお墨付きを熱心に求めておきながら、自分たちの国の内情についてはあまり正確に知られたくないと考えていたふしがあります。


邪馬台国はヤマト・大和なのか?


最近の研究では、邪馬台国の時代にあたる紀元3世紀には、奈良の大和盆地北部に弥生時代末期の大きな都市が造営されていて、近くにある前方後円墳・箸墓(はしはか)古墳もこの時代のものであることがわかって、大和説が有力とされるようになってきているようです。

これを受けて、最近の邪馬台国大和説では、箸墓古墳が卑弥呼の墓であり、近くで発掘が進んでいる纏向(まきむく)遺跡が、邪馬台国の中心部だったと考えるようになってきているとのことです。

纏向遺跡からは、関東など地方の建築材料などが出土していて、地方の従属国から都市建設のために人や物資が提供されていたことがわかると言われています。

邪馬台国大和説が正しいとすると、邪馬台国は大和から当時の倭の広大な地域を支配していたことになり、その頃からすでに後のヤマト王権/大和朝廷になる古代国家の前身が存在していたのではないかと考えたくなります。

つまり日本は弥生時代から近代・現代まで、同じ王朝・王によって統治されていることになるわけです。

しかし、僕はそういう考え方にちょっと違和感があります。

その理由のひとつは、「縄文」について書いたときに触れたように、古墳時代に東アジア・東北アジアから大量の移民がやってきたと考えられることです。


古墳時代の民族大移動


NHK-BSの『フロンティア』シリーズの『日本人とは何者なのか』では、弥生人の遺伝子解析だけでなく、古墳時代の人々の遺伝子解析も紹介していましたが、それによると、弥生人の遺伝子を構成していた縄文人と渡来人の遺伝子は、合わせて30%くらいに圧縮され、残りの70%くらいはその後に東北・東アジアからやってきた多様な人々の遺伝子によって構成されているそうです。

つまり、卑弥呼の時代の弥生人をはるかに上回る人数の渡来勢力がやってきて、古墳時代以降の倭人になったということです。

しかも、今の山陰地方には、中国大陸のある地域から渡来した民族の遺骨が集中的に出土する地域があるなど、日本列島の各地に、大陸や半島から新たに渡ってきた勢力の植民地が形成されたようなのです。


不安定だった邪馬台国連合


そもそも邪馬台国の倭国連合はいろんな地方勢力の集合体で、それらの勢力が争っていてまとまらず、宗教的な霊力を持つらしい卑弥呼を邪馬台国女王に立てて、なんとか連合国家が機能するようになったと『魏志倭人伝』には書かれています。

そして卑弥呼が死んだ後に男の王を立てたらまた戦乱が起き、1000人以上の死者が出たので、壱与という女王を立てることで何とかおさまったという記述が『魏志倭人伝』の最後に出てきます。

元々政治的に不安定だった倭国連合の土地に、民族大移動の波が押し寄せてきたら、邪馬台国は統治体制を維持できたでしょうか?

そこから多様な渡来勢力によるバトルロイヤルが始まり、民族のシャッフルが起きたんじゃないかと考えたくなります。

古墳時代の期間は350年くらいですから、弥生時代の1200〜1300年に比べるとかなり短いですが、その間に討伐・征服戦が展開され、九州から関東までの統一が実現する過程で、弥生時代とは違う新たな人種の混交が進み、新しい倭人が形成されていったということなのかもしれません。


倭の五王の時代


倭国に関する中国側の記録は『魏志倭人伝』以後しばらく途絶え、次に記録に現れるのは『宋書倭国伝』で、卑弥呼の時代から百年後に、いわゆる倭の五王が約半世紀にわたって中国の南朝・宋に使いを送り、高句麗などに対抗して朝鮮半島の支配権を認めてもらおうとしていることが書かれています。

『宋書倭国伝』には『魏志倭人伝』に出てくる邪馬台国とか狗奴国とか伊都国といった国名は出てきません。倭人の国はまとめて「倭国」と呼ばれています。

親子・兄弟など血のつながりがあるらしい、讃・珍・済・興・武という5人の倭王が倭国を治めていて、朝鮮半島の勢力と張り合っているわけですから、邪馬台国時代の統治の不安定さは解消されているようにも見えます。

彼らの時代の少し前、紀元400年に倭人が朝鮮半島で広開土王の高句麗と戦って撃退されたという記述が広開土王の事績を記した碑文に残っていますから、五王の少し前に、すでに倭は半島に進出して戦うくらいの国力・武力を持っていたことがうかがえます。

ここにも僕が邪馬台国→ヤマト王権→大和朝廷説に疑問を持つ理由があります。

倭が朝鮮半島に進出して軍事・経済活動をするような強国になっていたとしたら、不安定だった邪馬台国とは別の、軍事・政治的な支配・統治がそこにはたらいていると考えられるからです。


牛・馬の有無


もうひとつ、邪馬台国から古墳時代の倭国への移行が不連続的だったと推測したくなる理由に、牛・馬の問題があります。

『魏志倭人伝』には邪馬台国には「牛・馬がいなかった」と書かれています。

牛や馬は人やモノの輸送に威力を発揮しますし、ユーラシア大陸の遊牧民・騎馬民族は馬の機動力を活かして軍事的な優位を獲得しました。

中国では紀元前の秦・漢の時代に、中央アジアの匈奴という遊牧民・騎馬民族が北方から攻め込んできて、漢はこれに負けないように、中央アジアの強い馬を導入したと言います。

古代中国の中心エリアである中華平原にも、それ以前から馬はいたのですが、匈奴の馬の方が大きく、運動能力も高かったので、漢軍は戦闘で劣勢に立たされていました。

そこで漢は西域との交易によって強い馬を大量に輸入し、匈奴の侵入を防ぐことができました。馬を輸入する代わりに漢から輸出されたのは絹です。この西域との交易ルートは後にシルクロードと呼ばれるようになります。


馬のハンディ


倭国でも、古墳時代には埴輪に馬をかたどったものがありますから、馬はこの時代に入ってきたようです。となると、馬を倭国にもたらしたのは、大陸や半島から渡ってきた渡来系の民族だったでしょう。

『魏志倭人伝』が語るように、邪馬台国の時代に馬が倭に存在せず、古墳時代に大陸・半島からやってきた勢力が馬を使いこなしていたとしたら、彼らは先住民である倭人/弥生人より経済的な生産性も軍事力も上だった可能性があります。

当時の農業生産力や軍事力に大きく影響したと思われる鉄器も、原料である鉄鉱石は日本列島では採れませんし、鉄の加工技術も大陸・半島で発達し、倭に輸入されたと推測されますから、古墳時代にやってきた大陸・半島の勢力は、この点でも弥生人より有利だったでしょう。


鉄器のハンディ


『魏志東夷伝』つまり邪馬台国時代の朝鮮半島南部について書かれた中国の資料には、この地域は鉄の産地で、韓族や穢(わい)族など半島の民族だけでなく、倭人も盛んに鉄を買っていたと書かれていますから、彼らもすでに弥生時代から鉄の原料を買い、鉄器を製造していたと考えられます。

しかし、弥生時代の遺跡からは、鉄鉱石を溶かして鉄を作った痕跡は見つかっておらず、大陸や半島並みの製鉄技術が生まれるのは古墳時代からと推測されるので、やはり倭人・弥生人は鉄に関してかなりのハンディを負っていた可能性があります。

となると、古墳時代に半島・大陸からやってきた勢力が牛や馬を使いこなしていて、より優れた鉄器をより大量に持っていたとしたら、先住民である倭人・弥生人は経済力・軍事力で圧倒され、彼らに征服されてしまってもおかしくないんじゃないかと考えたくなります。


半島南部に進出する倭


一方、広開土王碑文によると、卑弥呼の死から100年近く経過した頃の倭は半島で高句麗と戦い、勝ちはしなかったにしても、その南にあった新羅や百済との戦いではけっこう優位に立っていたようですから、これら半島のライバル国と戦えるだけの戦力、つまり馬や鉄の武器を持ち、使いこなしていたということになります。

その後の倭の五王の時代には、しきりに中国の南朝・宋に遣いを送って、ライバルである高句麗が不当に半島南部を侵略・支配しようとしているとか、倭の半島南部の支配権を認めてほしいと訴えたりしています。

百済の南部には小型の前方後円墳が見つかっていて、この様式の古墳は倭独自のものとされているので、当時の倭は半島南部に進出し、ある程度の支配エリアを確保していた可能性があるようです。

5世紀の倭はいつ、どうやってそんなに強い国になれたんでしょうか?

DNA解析が物語るように、古墳時代が半島や大陸から様々な勢力が次々やってきた時代だったとしたら、半島で高句麗と戦う前に、それらの勢力をある程度統一して支配下に置き、国家として倭をまとめ上げなければ、強国にはなれなかったでしょう。

この新しい倭国の統一は、弥生時代から続いていた邪馬台国ではなく、新しく半島や大陸から渡ってきた勢力、馬や鉄器を活用していた勢力によって成し遂げられたと考えた方が自然です。


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