たった一人のバスケ部
どうも、こんにちは。
【株式会社自分の履歴書】では、僕の過去を振り返ります。自分がどんな学生時代を過ごしてきたかを知ってもらうことで、読者の皆さんに何か少しでも参考になれば嬉しいです。
今日は中学時代のバスケ部でのお話です。楽しんでいってくださいね。
↓↓ ところで、タカノハシ・ジロウってどんな人?? ↓↓
転校先に、バスケ部がいない
中一の冬、僕は転校した。小学校から中一までを過ごした目黒区を離れて、生まれた土地である隣の世田谷区に引っ越してくることになった。2011年の東日本大震災の影響を受けて、父の勤めていた会社の社宅が無くなるというネガティブな原因による引っ越しだったけど、結果的にこの引越しが僕の人生を変えたと思う。
冬休み、転校先の中学校に挨拶に行くと、衝撃的なことを知らされる。
「この学年で、バスケ部は君だけだよ」
転校する前のバスケ部は十人近くは居たと思う。おかげで試合に出る機会も少なかったけど。それが、こっちの中学校では僕の代は自分一人で、あとは先輩だけだという。その先輩も、6人くらいだった。
僕のイメージではバスケ部は人気の部活で、やりたいことがない人もとりあえずバスケ部に入ったりするのかな、と思っていたけどそうではないらしい。一学年4クラスで生徒数も転校前とそんなに変わらないはず。どういうことなんだろう、、、。
とにかく、僕は自分の代で唯一のバスケ部として、その中学校に転校することになった。
先輩と自分
バスケ部の練習は結構ハードで、週に5日は練習があった。放課後はほぼ毎日2時間くらいで、朝練もあって、土曜日は確か半日。日曜日は日によって練習試合があって、1日がかりでやることもある。そんな、ハードな日々を先輩たちにまじって過ごすことになった。
先輩たちは転校してきた僕を本当に暖かく迎え入れてくれた。毎日一緒に過ごす中でどんどん仲良くなっていった。その中の一人の先輩は床屋さんになって今でも髪を切ってもらっているし、もう一人の先輩は同じ高校に進学したので今でも飲みにいく。
こんなに先輩と仲良くなれたのは自分がたった一人の、遅れてやってきた後輩だったからかもしれない。流石に敬語をやめてタメ口で話すことはなかったけど、誰かをいじったりする時は一緒になっていじっていたと思う。
僕は根が真面目だったので、「来年からは後輩を一人で引っ張っていかなければいけない」という思い、あとは顧問の先生の期待も背負いつつ練習に精を出した。
バスケは小学校のミニバスからやっていたけど、特に運動神経がいいわけではないのでそこまで上手くなく、背も低かった。けれど、毎日部活に行って全力で練習をしているだけでスタメンにしてもらえた。
前の中学校ではそこまでのやる気も出ず、試合にも出れていなかった。人は与えられた役割と、責任感でこんなに変われるんだと、今振り返るとそう思う。
世田谷区のバスケ部は結構競争が激しくて、そもそも学校数が多い。それと、全国に行くような中学校が周りを牽引していて、強豪校たちが毎大会で熱線を繰り広げていた。自然とどの学校もレベルが高くなるので、公式戦ではなかなか勝てなかった。最後の大会ではやっと一勝出来たけど、2回戦でいわゆる強豪校に当たってボロ負け。それでも、お世話になった先輩達と試合で勝てて本当に嬉しかった。
先輩たちが引退すると、僕と、4月に入ってきた5人の後輩の6人になった。何とも寂しいベンチだけど、とりあえず試合には出られる。僕は、この後輩たちを一人で引っ張っていかなきゃならない。
自分と後輩
そんなこんなで、僕と後輩たちの日々が始まった。いざ先輩たちがいなくなると「大黒柱」としての自覚も強くなり、自分がしっかりしないとだめだという思いがますます強くなった。
遅刻や欠席なんてもってのほか、練習中も自分が一番声を出す、走る、一生懸命プレーする。たった一人の先輩、みんなのリーダーになったからには背中で引っ張っていくしかないと思った。気がつけばこの頃、誰よりも真剣に部活に取り組んでいたと思う。
正直、勝つことは期待していなかった。後輩たちは僕と同じくらいかそれ以上に体が小さかったし、バスケは未経験だった。強豪校のひしめく世田谷区で、体格もできていて小学校からの経験がある選手がゴロゴロいる他校に勝つのは至難の業で、そこは目標にしていなかった。というより、目標に出来なかった。とにかく、自分はリーダーとして後輩たちを引っ張り続けて、あとは後輩たちの代になった時に後輩たちが勝てるようになればいいと思っていた。
後輩たちはいい意味で生意気で、程よく憎たらしくて、よく自分についてきてくれて、みんなのことが大好きだった。この前後輩たちと集まって飲んだ時、みんな立派になっていて本当に嬉しかった。あの頃のように僕の周りに集まってきて、タメ口で話してくれたのが嬉しかった。
俺が一緒に走る
自分がリーダーとして覚醒した思い出があるのでちょっと書いておきたい。あれは3泊4日の合宿でのことだった。合宿でのメニューはとにかく走りがキツくて、朝ごはんを全部吐くくらいに走らされた。
中でも、制限時間を決めて何秒以内にコートを往復するというのがあって、制限時間以内に走れた人から休憩に入れるメニューだった。制限時間以内に走れないとクリアできるまで走り続けることになる。自分の体力が減っていく中で、ギリギリのところであと一歩踏ん張って制限時間をクリアしないといけない。これが体力的にも精神的にも結構きつかった。
僕は足は遅かったけど、体育館の滑らない床とバッシュを上手く使って素早く切り返すことが出来たので、こういうメニューをこなすのは得意だった。でも一人、本当に走るのが遅い後輩がいて、いつも最後まで残って走っていた。
みんな休憩に入って水を飲んだらそいつを応援しに帰ってくるんだけど、何となく僕はそれだけじゃいけないと思って、休憩中にも関わらず一緒に走ることにした。文字通り、「背中で引っ張ろう」と思った。朝から晩まで練習が続く合宿の中で、余計に体力を減らすのは正直頭が悪い。けれど、その後輩をもうちょっと頑張らせて、力を引き出すには一緒に走るしかなかった。ここまで深い考えはその時なかったと思うけど、なぜか僕はやるべきことを知っていた。
僕が引退する頃までにはその後輩もちゃんと制限時間内に走れるようになっていて、頑張ってよかったと思ったのを覚えている。
努力と結果
後輩たちを連れて1年弱、3年生の春になるとまた新入生が入ってきてバスケ部は10人を超える大所帯になった。けれども、やっぱり試合で勝てることは一度もなかった。練習試合でも、公式戦でも、一勝も出来なかった。結局最後まで、負けて悔し泣きすることしか出来なかった。
それでも、こんな弱小チームに愛想を尽かさず、後輩たちはみんな最後までついてきてくれたし、最後にバスケ部は大所帯になった。それが1番の成果だったと思う。何より、卒業間際に文字のぎっしり詰まった色紙を後輩たちからもらったのが全てを物語っていると思う。
よく先輩に色紙を書く時、思い出が少ない人は書くことがなくてスカスカになりがちだけど、僕がもらった色紙は本当に文字がぎゅうぎゅうに詰まっていて、みんなが心を込めて書いてくれたのが一目で分かった。それが1番の報いだったと思う。
死ぬ気でやったから、今がある
今は、体力的にもあの頃までのやる気を発揮するのは難しいと思う。中途半端に賢くなっちゃって、コスパを考え始めたのもあるけれど。
当時はどんなに勝てなくても、勝てないと分かっていても、限界まで走って毎日やり切ることが出来た。それは、自分がたった一人のバスケ部という中々経験できない立場を与えてもらったからだと思う。先輩たち全員から愛を注いでもらえたし、その分後輩たち全員に青春の日々をプレゼント出来たと思う。
「組織を背中で率いる」というのは今も僕の信念になっていて、その先の高校や大学で大いに自分を助けてくれた。就活の時のガクチカでこの信念の話ばっかりしたような気もする。きっと、これからの人生でも大きく僕を助けてくれると思う。
転校をきっかけに、僕は変わったと思う。小さい所帯ながら、バスケ部という組織を任され、リーダーとしてのあり方を学んだ。どうすればみんなが付いてくるのか、一つの答えに辿り着くことが出来た。僕はこれからも変わらず、「背中で引っ張れるリーダー」を目指してやっていきたい。
リーダーとしてのバイブルはこちら↓
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