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自分の“存在理由”に気づくために必要なこと
もう10年ほど前なのに、未だに忘れられないドラマがあります。
そのドラマは『野田ともうします。』というタイトルで、江口のりこさん主演で2010年~2012年に放送されていました。
(今年3月に再放送されていたようですが、しっかり見逃しました😅)
ちなみに、このドラマは柘植文さんの漫画が原作となっています。
そのドラマのどこが記憶に残っていたかと言うと、
シーズン3の第11話、「奪われたレーゾンデートル」というタイトルの放送回です。
野田さん(江口のりこ)が、小学校の時のこと。母の言いつけを守らず、夜更かしした翌日、冷蔵庫を開けたら、卵入れに起き上がりこぼしが入っていた。母に尋ねると「起き上がりこぼしのレーゾンデートルを喪失させている」のだと言う。その時、野田さんは決して母の機嫌を損ねてはいけないと悟った。母から送られてきた荷物に、母の怒りを感じた野田さんは、重松さん(小林涼子)と山本くん(相馬圭祐)を招き、一緒に見てもらう。
あらすじだけ読むと、“なんのこっちゃ”って感じでよくわからないですね。
レーゾンデートル(raison d'etre)とは、フランス語で“存在理由”という意味です。
起き上がりこぼしは、中に重りが入っていて倒しても起き上がってくる日本の伝統的なおもちゃですね。パンチングバックみたいな感じでしょうか。
それがドラマでは冷蔵庫の卵入れに入れられていて、起き上がることができない状態だった。
起き上がりこぼしは倒しても倒しても起き上がることが“醍醐味”なのに、卵入れに入れられてしまったことで、
起き上がりこぼしの存在理由が打ち消され、“レーゾンデートルが奪われた状態”になってしまった。
というようなお話でした。
あらすじだけ読むと、野田さんのお母さんの“毒親臭”が漂ってきますが、ちょっとそこは今回は触れないでおいて、
この“レーゾンデートルの喪失”について、書いていきたいと思います。
私が日常でレーゾンデートルの喪失だなと思うのは、ティッシュ箱の上に物が置かれてしまい、ティッシュが取り出せないときです。
また、台所のフタつきゴミ箱の上に大きくて重たいフライパンが置かれていて、ゴミを捨てられないこともあります。
そして、その場面に遭遇するたびに、私は無性にイラッとしてしまいます。
『こんなところに物を置かないでよ💢』と、思います。
そしてふと、“レーゾンデートルの喪失”を思い出します。
ただ最近、なぜこうも無性に腹が立つのか考えたときに、気がついたことがあります。
それは、自分が自分に対して、レーゾンデートルを奪うようなことをしてきたということです。
本来人は、“私はこういう存在でありたい”という願望を持っています。
そして、“あなたはこういう存在だね”と、まわりから認知される自分が在りたい自分とピッタリ合うと、人は幸せを感じることができます。
それが、自分が思う自分と、まわりから求められる自分がズレてしまうと、窮屈な感じを覚え、生きづらさを感じてしまいます。
自分らしい格好をしたいのにまわりから否定されたり、
夢を追いかけたいのに将来苦労するからやめておけと言われたり、
そうやって人は往々にして、自分の“存在理由”を確立できないときがあります。
こういう私として生きたい!
これが私なのだとまわりに示したい!
と思っても、それが叶えられないことが度々おこります。
“私はこれをするために生きている。”
“私はこれをして生きていきたい。”
と、意思表示することが難しくなってしまうのです。
そして気がつくと、何より自分自身の中で、
在りたい自分よりも、求められる、期待される自分を優先してしまうことがあります。
自分はフタつきゴミ箱として存在しているけど、使いかけのフライパンを置いておく台として生きたほうがいいのかな…。
そんな風に思ってしまうことがあります。
そうやって、自分が自分の本当の声を聞かずにないがしろにしていたために、
それを“再現”した状態が目の前に現れると、無性に腹が立ってしまっていた。
それが、私が感じた怒りの正体でした。
自分が、自分の存在理由を打ち消すようなマインドを持ってしまっている。
自分が、自分の存在理由を信じ切れていない。
よくよく考えると、人の存在理由というのは一人ひとりが特別に持っているもので、それは何よりも自分との対話で導き出されるものです。
私はこうしたい。私はこう在りたい。
―そうなんだ。うん、わかった。じゃあ、そうしていこう!
それで完結するはずなのに、どうしても自分の存在理由に自信が持てず、ついついまわりの求める自分を追いかけてしまうことがあります。
何か人の役に立つことをしなければ
何か利益を生み出すようなことをしなければ
何か賞賛されるような功績を収めなくては
そんな風にして、自分の存在理由に“条件”をつけてしまいがちです。
例えば、キッチン用品で言うと、私は“おたま”のようになりたいと思っていたとします。
何かをすくって、それを別の場所に運んで届ける。
そんな、何かと何かとつなぐ媒介としての役割を果たしたいと思っています。
けれど、まわりからは食材を刻む“包丁”のような存在を期待されたとします。
しかし、“おたま”は“包丁”にはなれません。
できることと言えば、せいぜいゆでたジャガイモなんかをつぶすくらいで、切ったり刻んだりすることはできないのです。
ほんとは“おたま”として生きたいのになぁ…。と思いつつ、見よう見まねで“包丁”のようになろうとしても、つらく苦しいだけなのです。
誰だって、この自分で生きたい!という自己像を持っていいのです。
そして、それを抑圧してくるのは、自分自身のマインドに他なりません。
自分は“出来そこないの包丁”だと自分を責める必要はないのです。
どんなあなただって、あなたがなりたいと思えばそれがあなたなのです。
そして、その選択によってあなたが失うものは何一つありません。
“自分はこうなりたい!”と思ったことに対して、誰の制約も、評価も、批判にも、耳を傾ける必要はないのです。
自分の存在理由に気づくために必要なことは、
自分がまず在りたい自分に“許可”を出してあげるということ。
“才能がない”、“向いていない”、“ガラじゃない“、“似合わない”、などという自分に対する偏見や思い込みを一度とっぱらって、
まずは在りたい自分を全力で受け止め、愛でてあげること。
そして、たとえそれがどんな自分であっても、それが自分なのだと心から信じ切ること。
これが、自分自身の“レーゾンデートル”を確立させることなんじゃないかと、私は思っています。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました😊🌟
※最近なぜかスキがよくつくこちらの過去記事を、関連記事として載せておきます😙
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