ひきこもりの経験から父親の家庭不在の影響を深堀りしてみた
久しぶりにヘビーな題材を選んでしまいました。
思えば、1年半前にnoteを始めた時に私が書いたのは、父についてでした(今は削除しましたが)
自分にとっての原点回帰、生きづらさを紐解くと、必ずモラハラだった父親との関係性を見つめざるを得なくなります。
そこから1年半経っていろいろなことを体験したり気づいたりする中で、
また違った角度からとらえられるようになってきたので、今回はそれをシェアします。
かなりの長文になりますが、無理のない範囲でお付き合い頂ければと思います。
生きづらさの背景には「暴力的な孤独」がある
さて、
まず私が本記事で言いたいことを先に書いてしまうと、
父親が不在の家庭で育つと、母子密着が進み自己愛が肥大化する一方で、社会性(他者に受け入れられるという感覚)が育たないので、子どもは挫折しやすく孤立しやすい
ということです。
今回記事を書くきっかけになったのは、以前noteでコメントを寄せて頂いた方に教えてもらったある本との出会いでした。
それが、こちら。
(T's Kidさん、その節はありがとうございました🙇)
こちらの本は、以前書いた記事と内容がリンクする部分が多く、読んだそばから付箋を貼りっぱなしな状態でした。
私はこれまで、主に過保護で過干渉だった母親との関係を記事に書いてきました。一方で、冒頭で書いた通り、父親との関係はいまいち深堀りしきれていませんでした。
そんな中で、この『ヒロインの旅 ──女性性から読み解く〈本当の自分〉と創造的な生き方』では、父親と娘の関係についていくつか記述があり、ハッとさせられました。
なんでも受け止めてくれる母親と違い、父親は社会的なルールや基準を子どもに教える役割があります。
しかし、父親が仕事で忙しく育児に不参加な状態の場合、子どもはうまく社会性を育むことができません。
子どもは父親を見て男性性を、母親を見て女性性を学ぶとされています。
父親が家庭不在なことで、子どもはうまく自分の中の男性性を育むことができなくなってしまいます。
その上、子どもと関わる機会が少ない上にその関わり方が一方的な場合、子どもの男性性や社会性は傷つき、深刻な影響を受けてしまいます。
私の父はモラハラでしたが、私が小さい頃はよく遊園地につれていってくれたり、お盆やお正月は、よく車で母の実家に帰省していました。
今振り返ると、わりと子煩悩な面があったと思います。
しかし、父は私たち姉妹が思春期にさしかかると、とたんにどう関わったらいいのかわからない様子でした。
ただでさえ子どもとの関りが日常的に少ないのに、それも女の子となると父親としてどうしたらいいのかわからなかったんだろうと思います。
とりわけ亡くなった姉はかなり荒れた反抗期だったので、親としての葛藤があったことと思います。
子どもとの関り方がわからなくなると、父親はどうなるのか。
子どもへの態度が否定的になったり、一方的に決めつけたような言葉がけが多くなります。
それは、父親としての自信がないからです。
私にとってモラハラだった父の印象は、『嘲笑』『侮蔑』『冷酷』『否定』『独断的』といったものでした。
そしてときにそれは、子どもにとって“暴力”を振るわれることと同じような傷を植え付けてしまいます。
カウンセラーの東畑開人氏は、その著書の中でこう描写しています。
私は大学を卒業したあと5年間ひきこもっていましたが、その根本的な原因の一つには、自分を否定してきた父親との関係性にありました。
父親との関係構築の挫折経験は、そのまま社会との関係性に反映されます。
父親に否定されたことで、私は自分の中で健全な男性性や社会性を育むことができず、社会に出て行くことに過度な恐怖を覚えてしまっていました。
加えて過保護で過干渉な母親の影響で、自己愛を健全に育てることができずにいました。
当時の私は、常に自己否定と劣等感とゆがんだ自己愛を抱えながら、反動で過剰に高くなったプライドをひっさげ、一生懸命まわりに合わせて“擬態”するという生活を送っていました。
しかしながら、当然そんな生き方は限界を迎え、ひきこもりという形となって、心の中の傷やトラウマと直面する事態となりました。
なんらかの原因でこの「暴力的な孤独」を植え付けられた人は、人を頼ることができません。人を信じることもできません。
人に心を開けず、困っていたとしても、『助けて』と言えません。
人とつながりたくても、この“心の個室に住み着いた暴力的な他者”によって、その機会をことごとくつぶされてしまうのです。
「暴力的な孤独」からの癒しには何が必要か
カウンセラーの東畑氏は、「暴力的な孤独」の傷を癒すためには、現実の他者が必ずしも危険ではないという感触の積み重ねであると記しています。
本来、母性的・父性的なかかわりが健全に機能すると、子どもはのびのびと成長することができます。
まずは母性的なかかわりで子どもに安心感を与え、“どんな自分でも愛される”と、しっかりとした自己愛の土台を築かせる。
そしてその上で、父性的なかかわりで時に厳しい態度で子どもに気づきを与えながら、子どもの中にしっかりとした責任感や主体性を育てていく。
根の部分はしっかりと守られながら、枝や葉の部分は自分で好きに成長していけるように水やりや養分の管理がされれば、子どもはまっすぐ育ちます。
しかし、親から否定されて育ってしまうと、子どもは社会の中に居場所を見出すことができません。
自己愛の土台が不十分な状態で否定的なかかわりをされてしまうと、子どもにとっては芽を摘み取られ土壌を汚染されたのと同じになってしまいます。
「暴力的な孤独」の問題はとても闇が深いものです。
本来はやすらぎがもたらされる場所の心の個室に暴力的な孤独が植え付けられてしまうと、それをなかなか取り除くことができません。
私自身、生まれてから今日まで三十数年間、言ってしまえばこの心の個室にある「暴力的な孤独」と、ずっと闘ってきたような気がします。
この「暴力的な孤独」からの癒しには、何が必要か。
私自身のこれまでを振り返って思うのは、
とあるように、やはり自分を傷つけてこない人との出会いだと感じます。
奪っていくだけじゃない人もいるんだ。
優しくしてくれる人もいるんだ。
そういった一つ一つの経験が、自分の中のかたくなだった心を溶かしていってくれていたように思います。
また何よりも大事なことは、自分の中の「暴力的な孤独」に気づいてあげることだと感じます。
大事なことは、自分の中に植え付けられた「暴力的な孤独」にいかに気づくことができるか。
自分の生きづらさは、自分の人間としての至らなさや未熟さからくるのではなく、まだ幼い頃にまわりから植え付けられた「暴力的な孤独」から来ていたのだと自覚すること。
そしてさらにそれを誰かのせいにするのではなく、ただ自分は寂しかった、愛されたかった、受け入れてほしかった、ただ安心したかっただけなのだということに気づくこと。
これが、自分の中で癒しが起こる一歩になり、やがては心の個室から「暴力的な他者」を追い出す最も有効な手段になってくると感じます。
与えられるべきものが与えられなければ、当然人は欠乏感や飢餓感を持ちます。
そしてそれをそのまま認め受け入れてあげなければ、人はその傷や孤独を抱えながら生きなければなりません。
ああ、自分は寂しかったんだ。
そう思うだけでいいんです。そしてそれは、決して“弱さ”や“恥”ではありません。
自分は寂しかった。
そこからスタートすることで、癒しや赦しが起こり、自らの手による人生の立て直しが始まると感じています。
おまけ:『旅の重さ』に見る「暴力的な孤独」からの癒し
本当は本文に乗せたかったのですが、引用が多すぎてしまったり構成上うまくまとめられなかったりで断念しました。
かわりに、おまけという形で私のお気に入り映画『旅の重さ』をご紹介します。
『旅の重さ』は1972年に公開された映画で、素九鬼子さんが書いた小説が原作となっています。
内容は、男性の出入りが激しい母親との母子家庭で育った16歳の少女が、突然家出をし一人旅を通してさまざまことを経験していくというものです。
主人公の少女は、旅先で母親に手紙を出します。
このセリフから、母親の毒親っぷりやその母親を恨み切れない、切ない子どもの心情が伝わってきます。
母親と母子密着の状態だった主人公ですが、ある時そんな日々に耐えかねて旅に出ることを決意します。
その背景には、ある“概念”とも“幻覚”とも言えるものがあったと振り返ります。
“自分自身を悩ます幻影”とは何なのかはっきり語られていませんが、個人的にはご紹介した「暴力的な孤独」と置き換えられるような気がします。
満たされない孤独を抱えながら、少女は旅先でさまざまな人と出会い交流していきます。
ときには、思わぬ言葉を投げかけられることも。
そんな中で、主人公は体調を崩し倒れているところを行商を営む中年の男性によって助けられます。
そして、その男性との交流を通して、少しずつ主人公の心がほぐれていきます。
しかし、その男性ともある出来事がきっかけですれ違ってしまい、主人公は家を飛び出してしまいます。
彼女は泣きじゃくりながら、こうつぶやきます。
心の個室に暴力的な他者が住み着いていると、人とうまく心を通わすことができません。
主人公の場合、助けてくれた男性に対して『パパを知らない』と吐露したシーンから考えてみても、父親不在でなおかつ精神が不安定な母親に育てられたことで、社会性が育たなかったことがうかがえます。
主人公は、
お前は無価値だ
お前はダメな人間だ
と母親から刷り込まれたメッセージが原因となって、人とつながりたくてもうまくつながることができなくなってしまっていました。
しかし最終的には、主人公は男性と共に生きていくことを決意します。
主人公は物語の終盤で、男性と出会い温かい交流を通して「暴力的な孤独」が癒されていった結果、
自分自身を取り戻し、母親から卒業することを決心することができました。
彼女の中で、“心の中の悪しき他者”が“現実の自分を温かく受け入れ愛してくれる他者”に置き換わったことで、
彼女の中の「暴力的な孤独」が癒された、というハッピーエンドな結末でした。
本来孤独というものは、悪いものではありません。
そもそも一人ひとりが孤独な存在なのです。
私たち一人ひとりに、「豊かでにぎやかな孤独」を持つ権利があります。
それを侵害してしまうのが、間違って植え付けられた「暴力的な孤独」なのです。
「暴力的な孤独」があると、自分を信じることも、人を信じることもできません。
しかし本来は、私たち一人ひとりに「豊かでにぎやかな孤独」が与えられているのです。
そこにたどり着くためには、やはり自分の中にある傷やトラウマと向き合う必要があるように感じます。
紹介してもらった本にも、こうあります。
私は以前、自分の誕生日に思いきって一人でスカイツリーに夜景を見に行ったことがあるのですが、
カップルやファミリーがほとんどの中、不思議と心地よさを感じたことがありました。
一人で来ている私をジロジロ見てくる人はほとんどいなく、人が大勢いてにぎやかだけど、自分のスペースが尊重され、守られている。
そんな不思議な“孤独”を経験しました。
とありますが、私が体験したのは、まさしく安心感のある孤独でした。
私がその体験をできたのは、社会復帰してからいろんな人と出会い、愛してもらったり励ましてもらったり癒してもらったからだと感じます。
「暴力的な孤独」を「豊かでにぎやかな孤独」に変えるためには、“孤独”を“孤立”にしてしまう暴力を見過ごさないこと。まずはその傷を徹底的に癒すこと。
どうかあなたの中の「暴力的な孤独」が、少しでも癒されますように…🍀
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