精神世界に目覚めたけど高次元にとらわれすぎなくていいと思った話
タイトルをどうしようかかなり悩みました。
ここ数日、常識では説明しようのない謎の超常現象に出くわし、
スピリチュアルなことにかなり抵抗がない私ではありましたが、
さすがに
お、おぅ…マジか…(((((;゚д゚)
的な、なんとも後ずさりする事態に陥りました。
イラストにすると、
と歩いていたら、
急にカミナリが落ちてきて
みたいな。
え?何言ってんの?って感じですが、これでも真剣なんですよ(マジな目)
ということで(?)、今回は自分なりの落としどころを考えていきたいと思います。
さて、自分で言うのもなんですが、私はわりと“魂の物分かりがいい”タチだと思っています。
いろいろなきっかけが重なり精神世界に目覚めてから、これまでたくさんのインスピレーションを受け取ったり気づきを得てきました。
私は感覚的に、“さっさと課題をクリアして次のステージに行きたい”と思っているところがあり、
そのために、何か日常で想定外のことが起こっても、
“あ、そういうことね。はい、わかりましたー。”
という感じで、わりと抵抗なく受け入れてしまう傾向があります。
けれど、ここで困ったことが起こります。
それは、“三次元の自分の抵抗”です。
え、なにそれ意味わかんない。
いやいやいや、それは理不尽すぎでしょ。
納得できない。無理。
普通にありえないんだけど。
高次元の自分は、「あ、そういうことね。おっけー٩( ᐛ )و」とすんなり受け入れていることでも、
三次元の自分は激しく抵抗する。
そんな板挟み状態に悩まされてきました。
(思えば、覚醒体験による体調不良はこの三次元と高次元の乖離から起きるのかも知れません。)
よくよく考えれば、私たちは肉体を持ってこの三次元の世界に生まれてきます。
魂は高次元の存在といっても、肉体の中に入っているかぎり私たちはその“縛り”から抜け出すことはできません。
高次元の存在だけでことが済むなら、人間として生まてくる必要はないのです。
それを、わざわざ人間という時間的にも空間的にも制限がある肉体に宿ることを選んで、私たちは生まれてきます。
それはなぜ?
何のために?
それは、いろいろなことを体験するためです。
あらゆる縛りがある中で、縛りがあるからこそ味わえる感情や感覚を経験するためです。
本来は、そこに良いも悪いもありません。肉体だからダメだとか、高次元だから尊いとか、そういった単純なことでは決してないのです。
高次元の自分ではすんなりと納得していることでも、
三次元の自分は
え??どゆこと??
意味ワカラン
ついてけない
となって、いいんです。
高次元の自分だけで生きていられるなら、肉体はいりません。
肉体を選んで生まれてくるということは、その肉体での生きづらさを経験すること込みで選んで生まれてくるということです。
例えば私の場合は、身長が異様に高いです。(しかも最近身長が伸びていたことが発覚しました…)
とにかく目立ちたくなくても目立ってしまう、日常生活で不便を感じる、などさまざまな縛りがあります。
そもそも、私たちは肉体由来で生じる欲求に絶えず翻弄され、悩まされています。
しかしそれもまた、私たちにとっては必要なことなのです。
私たちの肉体には、無駄な機能は一切ありません。
感情でさえも、無駄では無いのです。
もしも無駄な機能があるとしたら、それは無駄だと切り捨てて考えようとする思考そのものと言えます。
しかし、それすらも味わうことが目的で、私たちは生まれてくるのです。
肉体に魂が宿るということは、かなりちぐはぐな状態です。
肉体と魂は、三次元と高次元という相いれない異質なもの同士だからです。
だから、抵抗していいのです。
無理に高次元にとらわれなくていいのです。
怖い
意味がわからない
と、不安がっていいのです。
そして、肉体を通して経験することはすべてが尊いことなのです。
どんな感情も、どんな感覚も、すべてが尊いものなのです。
高次元だけをひいきして、三次元(肉体)の自分をないがしろにしてはいけません。
人は、三次元の自分を祝福できて初めて、高次元ときちんとつながることができるのではないかと私は感じています。
高次元やら三次元やら、書いてて自分でもこんがらがってきました。
とりあえず私が言いたいことは、今あなたが感じているどんな感情も感覚もすべて尊いもので、大切にしてあげてほしい、ということです。
たとえそれがはたから見たら忌み嫌われそうなものであっても、理解されそうもないことであっても、
自分だけは、その感情や感覚を大切にしてほしいと思います🍀