現代の日本で女性として生まれたことの意味と課題を改めて考える
今から1年ちょっと前に、日本女性の生きづらさについて記事を書きました。
で、最近いろいろとまた“女性と性”について感じることがあったので、
テーマがテーマだけに長くなってしまいそうなのですが、なるべく伝えたいことを絞って書きます。
さて、
今回記事を書こうと思ったのは、あるメンターさんのYouTube動画を見たことがきっかけです。
彼女はその動画内で、昨今騒がれている女性の性をめぐる騒動について、ご自身も似たような目に遭ったことを涙ながらに告白していたのですが、
その動画を見て、改めてこの日本という国で女性として生まれてくる魂には、どんな課題や使命が課せられているのかを考えました。
冒頭にご紹介した記事内で、
と書きました。
これを昨今の状況に言い換えると、
女性の価値は男性によって与えられるものという価値観がはびこっている
と表現できます。
もちろん、男性にも同じように性にまつわるネガティブな強迫観念が存在していますが、
長い間男性が優位だった社会の中では、女性という立場上、
自分の性と引き換えに何かを得るということが起こったり、
その何かを求めたがゆえに、結果的に女性としての深い自己嫌悪や罪悪感、そして自己否定を抱えこんでしまう、
ということが起きてしまいます。
そもそも日本は、法律(中絶の権利や姓の選択など)の枠組みの段階から、女性の人権が認められていない国です。
そんな社会の中で、いつしか私たちは、
女性は弱い
女性は無力だ
といった、集合的無意識レベルのネガティブなイメージを引き受け、
“何かを提供できない自分には価値がない”
と思い込んでしまうようになります。
そしてその結果として、一方的に若さや性が搾取される構図に絡め取られてしまいます。
諸悪の根源は、それをターゲットにする男性や社会的な構図そのものと言えます。
ただ、この問題を単純に“男性”対“女性”(※もしくは“正しい”対“間違っている”)の二項対立でとらえても、あまり意味がありません。
女性の癒しというのは、男性の癒しとセットです。
なぜなら、両者は“ふたつでひとつ”だからです。
実際、私たちは男性と女性がいないと生まれてくることはできません。
そしてなによりも、私たち一人ひとりの中に、男性性と女性性という二極が存在しています。
自分の身を守れなかった
正当な権利を主張できなかった
女性としての尊厳を踏みにじられた
という後悔や悲しみは、すべて男性性由来の感覚です。
リスクを取る、行動する、主張するという行為は、男性性が司っています。
では、なぜ現代の日本で女性が男性性を正しく発揮し、
自分で自分の身を守ることができないのか。
それは、社会的な構造として
女性は弱いものである
という観念が背景としてあり、
何よりも、他ならぬ女性自身がその観念を植え付けられて育ったことで、
女性の中の男性性が、適切に尊重されたり育まれる機会を奪われてしまったからです。
風の時代が本格的に始まっている今、
私たちは、性に対して長い間植え付けられた観念を、自らの手で書き換えていくことが求められます。
集合的無意識の根底にある、
女性は男性に頼らないと生きていけない
女性は自分で自分を幸せにできない
という観念を手放していくこと。
自らの喜びを解放し、自分という存在の素晴らしさに目覚めること。
本来、女性は強い存在です。
女性の持つ美しさ、気高さは、どんなことがあっても失われたり穢されたりすることはありません。
たとえどんな目に遭おうと、その輝きが永遠に奪われることはないのです。
男性には男性の良さがあり、女性には女性の良さがあります。
そしてこれからの時代に重要なのは、お互いが依存した形ではじめて両者の良さが成立するのではなく、
それぞれが独立した状態で、すでにすばらしい存在であるということを認め合うことなのです。
性別関係なく、誰一人として性を不当に搾取されない社会を作るには、
まずは、私たち一人ひとりの中にある男性性と女性性を癒し、立て直していくことが重要です。
この地球という同じ惑星に生まれついた時点で、他者の問題は自分の問題でもあります。
まずは、私たち一人ひとりが、他者の痛みを“自分事ごと”としてとらえ、
自分の中の男性性と女性性に置き換え、それぞれが向き合っていくこと。
癒しや浄化を通して、私たちという存在が性別関係なく無条件で愛されているという事実に目覚めること。
それが、現代日本で女性として生まれたことの意味と課題だと、私は感じています。
以上です。
少しでも何かの癒しや気づきとなりましたら幸いです💐
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