希望の先は果てしなく、ほろ苦い
怒り、または狂気で物事は容易く変わる事はないだろう。
むしろ根深い傷痕を残すだけだと思われる。
以前に紹介した記事を改めて鑑賞したが、
混沌とした時代が訪れる日はそう遠くはないのではないか?などと、独り言を呟く今日この頃、野口五郎である。
まぁ、軽いジョークはこの辺にしておき、前回の『マッドマックス 2』を復習したかの如く、より現実味を加えた作品である、邦題『マッドマックス 怒りのデスロード』を再度、確認のつもりで鑑賞した。
これで三度目の鑑賞だが、率直な意見を述べると…
すんげえ!!!の連発に尽きる。
冒頭でマックスがいきなりステーキ並みに、突如捕虜となるシーンは心配になった。
前作のメル・ギブソンが演じたマックスは骨太な人物像だった故に、新たにマックスを演じるトム・ハーディは骨の髄までしゃぶられる温室育ちなのかと冷や汗をかいたものだ。
しかし心配ご無用。
先ず、この物語を簡素に説明すると、資源が豊富の砦から物資以外の資源を逃そうと。フュリオサを演じるシャーリーズ・セロンの役どころが骨太だった事を確認し安心する。
この作品で欠かせない内容は、前作で描かれた資源は石油が中心だった。
今回紹介する作品は石油以外に水はもとより、人間そのものが資源として捉えられている。
砦を牛耳るヒュー・キース・バーンが演じるイモータン・ジョー は前作の「マッドマックス」と、原型版である「マッドストーン」にも出演したという事は、筋金入りのキャラクターとして任命してもおかしくないだろう。
まぁ、それはさておきとし、フゥリサオに愛おしい五人の妻を奪われたイモータン・ジョー は怒り狂い応戦する。
いやいや、その前に、簡単に捕虜となったマックスの行方が気になる。
マックスも資源として囚われの身となる。
その理由は人材というよりも、動き続ける限り不可欠な血が重要視される。
このような捕虜を「輸血」と称され、石油と同様、限りあるうちは利用され続ける。
フゥリサオと共に逃げた五人の妻は憧れの聖地である緑の大地を目指す。
違う場所でマックスは輸血用の物資として、イモータン・ジョーの雑魚である「ウォーボーイズ」の一人であるニコラス・ホルトが演じるニュークスに翻弄される。
やがて主役のマックスもこの件に交わり事態が悪化する。
このまま物語を語るのは面白みに欠けるので、ここは主観的に捉えた感想を述べたい。
前作に比べ冒頭で説明した通り、この作品は奥深い事に人、もっと具体的に述べると子を授かる者を取り戻す事に指導者は固執する。
ここで指導者と述べたのには理由がある。
規律や法が尊重されない時代に必要なのは抽象的な指導者である。
例えば神様や群像で示される大きな存在以上に権限を持つ生き神さまを表している。
人は弱い生き物である。
それ故に力強いものに縋る傾向にある。
こういった概念を宗教として讃えられる。
あらゆる宗教が存在するが、いぜれも抽象的な神に無条件に祈る事を強いられる。
そうなると物事に左右されない人物は疑問という理由を探ろうとする。
正しい物を見極めるために。
こういった背景を軸に考察すると、この作品は前作と違った重要な位置を目指したのだろう。
先ほど紹介した通り、ボキはこの作品を鑑賞したのは三度目だ。
で、で、三度目にして痛感した答えが、はなから観客に情報を与えない所から進めている点だ。
物事にヒントしか存在しなければ何事も進まない事に繋がる。
この上↑の画像が示すように、女性という存在を快楽の他に、子孫繁栄に繋げる義務が限られた男性に与えられたと不自然な論理に至る。
それこそ不自然であり不愉快な考えだ。
限られた資源を有効活用するのではなく、己の資材とし活用する行為は間違いでもあり、誤った答えでしかない。
それらを正すには反乱分子が必ず存在する。
小さかろうと大きかろうと。
これも主観的な意見でしかないが、恐らく前作と同様に『マッドマックス』シリーズに答えを明かす事を必要としていないのだろう。
むしろ答えよりも課題こそに焦点を当てるべきだと映像を通して語れている。
因みに当初、今回のマックスはヒース・レジャーが候補として挙がっていたらしい。
それにしても、正常であればあるほど、MAD(狂気)なものに憧れを抱くのは正常の証なのかも知れないかな〜
で、唯一のヒントを残すならば、トム・ハーディー版マックスは過去(幻影)への蟠りを絶てない事に翻弄されている点かな…
わーお!